3月30日淡路島は、神様たちのいるところ

Posted by K.
3月30日 Posted by K.

 春の淡路島を訪れました。企業が本社機能移転を計画するなど、にわかに話題の島です。京都でお店を営む人が、休日は淡路島の家で過ごしていると聞いたのは、ずいぶん前のことですが、関西エリアの人々にはずっと身近な場所だったのでしょう。

 淡路島は、兵庫県と、四国の徳島を斜めにつなぐように横たわります。明石と淡路島北端との間には明石海峡が、淡路島の南端と徳島の間には、鳴門海峡があります。古代は地続きだったのでしょうか。今回は、新幹線の新神戸駅から明石大橋を通って車で淡路島に入りました。

 

 

まずは、イザナギ、イザナミノミコトです

 淡路島は、国生み神話の舞台です。イザナギ、イザナミの2人の神が、天浮橋(あまのうきはし)から、下界のドロドロとした大地を天沼矛(あまのぬぼこ)でかき回し、落ちた雫が固まってできたのが「おのころ島」。そのおのころ島が、淡路島の北にある絵島であるとも、南にある沼島(ぬしま)であるとも言われています。おのころ島で夫婦となった2人は次々と島をつくり、その最初の島が淡路島だと言われてきました。淡路島のちょうど真ん中くらいには、伊奘諾(いざなぎ)神宮があります。伊奘諾大神が、天照大神に国を任せ、この地で余生を過ごした後に、神陵を築いたのが、この神宮の始まりだとか。伊勢神宮と同じ、シンプルな神明鳥居があり、修復中の本殿は美しい桧皮葺です

左 - 沼島の小さな山の上に自凝(おのころ)神社があります。
右 - 江戸時代には、人形浄瑠璃が盛んだったという淡路島。今でも高校生が部活で受け継いでいます。若いうちに伝統芸能に触れられるのはうらやましい。
下 - 淡路島の北の端っこに浮かぶ絵島。

漁の神様、えびすさん

 この島には七福神もお揃いです。島の南にある万福寺には恵美酒さんがいらっしゃいます。七福神の中で、唯一日本の神様であるえびすさんには、恵比須、恵比寿、戎、蛭子の漢字が当てられますが、恵美酒とはなんとも楽しい字面です。

 えびすさんのルーツには、2つのいわれがあるそうです。一つは、イザナギ、イザナミノミコトが生んだヒルコノミコト。歩くことができなかったために、葦の舟にのせて海に流され(本当はコワイ神様の話)、着いた岸辺で海の神様として祀られたというもの。もう一つは、オオクニヌシノミコトの息子のコトシロヌシノミコトをえびす神とするもの。ヒルコノミコトルーツのえびすさまは、座って鯛を掲げていて、コトシロヌシルーツのえびすさまは、立っているのだそうです。東京、恵比寿駅前の座ったえびすさんがおなじみゆえに、立っているえびすさんがいらっしゃるとは。松江の美保神社や大阪の今宮戎神社のえびすさんは、コトシロヌシルーツのようです。

万福寺の屋根には、釣りを楽しむ恵美酒さん。淡路はいぶし銀に輝く瓦の産地でもあります。

ひっそり眠る、淡路廃帝

 万福寺は、もともとは淳仁天皇陵を守る僧侶のために建てられたお寺なのだそうです。淳仁天皇が即位したのは758(天平宝字2)年。25歳の47代天皇です。当時は、聖武天皇の妻、光明子を叔母にもつ藤原仲麻呂が力をもっていた時代。自分の思うままに動かせる若い天皇を支持したらしい。ところが、先帝で、上皇になっていた孝謙上皇は、野心家の僧侶、道鏡と仲良くなってしまいました。ちなみに孝謙上皇は女性です。聖武天皇の娘ですが、独身でいるなら女性天皇はアリ、だったようです。仲麻呂と、孝謙上皇・道鏡チームとの権力争いは、仲麻呂がクーデターを起こそうとして失敗、戦死で終わりました。淳仁天皇は仲麻呂のクーデターには加わらなかったものの、皇位を剥奪され、764年、淡路島に幽閉。孝謙上皇は再び天皇の座に就き、48代の称徳天皇となります。淡路島に流された淳仁さんは、脱走を企てるも失敗。その翌日に亡くなっています。病死説は、誰も信じていないようです。

 淳仁さんが「淡路廃帝」と呼ばれるのは、こんな経緯があったから。万福寺のそば、こんもりと木が茂る小山の前に神明造の鳥居があって、あれ?と思ったその場所が、まさに陵でした。

「廃帝」という、悲しい運命を背負わされた淳仁天皇がここでひっそり眠っているなんて、としみじみしていましたが、次に案内していただいたのが、しだれ梅のあるお宅。訪れたのがちょうど2月の末で、地面にまで届こうという枝にびっしりと、ほぼ満開の花がついていました。花がつくりものでない証に、枝の下へ潜り込むと、芳しい匂いに包まれます。日頃、どんな丹精をなさっているのでしょう。ご好意で、この季節はお庭を開けてくださっているようです。

左 - 万福寺のそばにある、こんもりしたところが淡路陵。ずーっと「淡路廃帝」と呼ばれてきましたが、明治になってようやく「淳仁天皇」というおくり名を賜りました。
右 - これが秘密のしだれ梅。花火の三尺玉のよう。

御食国の豊かな食

 「みけつくに」と読みます。平安時代まで、朝廷に海産物などを貢いだ国を指す言葉で、若狭、志摩などとともに、淡路国も朝廷の食を担っていたようです。以前、京都の上賀茂神社の神饌の模型を見たことがありますが、淡路から運ばれたご馳走だったのでしょうか。

 海に囲まれた淡路島は、フグやハモなどの海の幸はもちろん、今は玉ねぎや柑橘などの農産物、そして淡路ビーフや淡路牛と、ブランド食材の宝庫です。淡路島の南の端にある沼島の料理旅館木村屋では、通常は1年のところを、3年かけて養殖した「3年とらふぐ」の鍋をいただきました。身がぷくぷくとしまって、コラーゲンたっぷりの鍋です。この季節はフグ鍋が名物ですが、いろいろな魚を一緒にした鍋や、夏は、ハモと玉ねぎの鍋が、大変お勧めだそうです。この料理旅館は、娘さんたちも島に残って旅館の仕事を手伝っていて、お孫さんの元気な声が聞こえます。なんとも福々しい気持ちにさせられました。

上左 - 沼島の料理旅館、木村屋の「3年とらふぐ」の鍋。身が厚い。
上右 - 淡路島のフレンチレストラン「ラ・リュエル」では、島の食材を使った美しいフレンチを味わえます。写真は由良産の活伊勢海老のポワレ。
下左 - あわじ花ホテル内の懐石料理「fuku」で。あわびと蕗のおすまし。底に生のり。
下右 - 同じく「fuku」。「3年とらふぐ」のポン酢ジュレに白子ソース。

岩が気になる……

 ブラタモリを楽しみにしているせいか、淡路島では岩に目が向いてしまいました。

 島の北端に、ぽっちりと浮かぶ絵島は、「おのころ島かもしれない島」の一つ。波に晒され、地層がチューブ状やら鉄球状に現れたりしています。すぐそばの岸辺から、絵島をかすめてみる月の美しさが、古くから愛されてきたそうです。

 同じ東海岸には、室町時代の後期に築城された洲本城跡があります。当初は石垣のない城でしたが、秀吉配下の仙石氏が、四国攻めの基地として石垣のある城に。さらにその後城主になった脇坂氏が登り石垣のある強固な構えにしたと言います。石垣づくりに活躍したのが、近江国の石工集団、穴太衆(あのうしゅう)。洲本城の石垣の各所で、穴太衆の技が見られます。

「3年とらふぐ」鍋をいただいた沼島も、「おのころ島かもしれない」島。南端の土生(はぶ)港から、沼島汽船で10分のところにあります。島の周りを解説しながらぐるっと回るおのころクルーズを利用しました。船から見る沼島は、さながら奇岩の見本市。結晶片岩類で、古代、この辺りでプレートがぶつかり合ったことを物語っています。海面からは大小のハエ(岩礁)が顔を出します。中でも高さ30メートルの尖った上立神岩(かみたてかみいわ)は、イザナギ・イザナミが使った天沼矛に例えられたりする絶景ポイント。岩のおなかにはハート型が、見える人には見えます。クルーズ船から見えるミルフィーユ状の緑がかった岩は、島の中で、積み上げて石垣にしているところを至る所で見ました。梶原景時の菩提寺でもある神宮寺では、岩を使った枯山水が見られました。同心円状の地層も一部にあって、沼島とフランスでだけ発見された珍しいものだそうです。ぜひブラタモリで解説していただきたいものです。

上左 - 洲本城跡の石垣。穴太衆の技術の一つに、自然石を積み上げる「野面積(のづらづみ」があります。写真の部分が穴太衆の担当箇所かどうかは聞き逃してしまいました。
上右 - 緑泥片岩からなる沼島の上立神岩。ハートが見えるかどうか。
下左 - 約40分で沼島をめぐる「おのころクルーズ」船から見た沼島。洞窟あります。
下右 - 沼島、神宮寺の石の庭。島内では、平らに割れるこの石を積み上げた、低い塀が見られます。

朝日も、夕日も

 淡路島では2回、朝日を見ることができました。一度は淡路島から、2度目は沼島の上立神岩越しに。東西を短時間で横断できるのは、島だからこそ。海で囲まれているから朝日も夕日も、見ることができるのです。

 海から昇る朝日、海に沈む夕日。しばし、日常の時間を離れて、光を浴びる。神様たちは、こんな光の中から生まれてきたのでしょうか。

沼島から見た朝日。