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暮らす旅スタッフの京都に関するコラム、
お知らせや京都の催事・イベント情報など随時掲載していきます。

スペインで「暮らす旅」3

2017.11.05 |

 マドリードの話を続けるつもりが、気づけばふた月も過ぎてしまいました。筆者が脊椎化膿症でひと月あまり入院したせいもありますが、スペインではバルセロナのテロのあと、カタルーニャ州の独立をめぐり、厳しい対立が起きてしまいました。

 カタルーニャの州都であり、経済的にはスペイン一の稼ぎ頭でもあるバルセロナは、首都マドリードとの距離は600km。高速列車で約3時間と東京神戸間と同じです。ところが東京と関西以上に、言葉はもちろん文化的にもマドリードとバルセロナは大きく違います。スペインといえばすぐに連想される闘牛やフラメンコはカタルーニャでは人気がありません。バルセロナ市内にはかつてあった闘牛場も今はなく、フラメンコは観光客相手のタブラオ(フラメンンコを鑑賞できるレストランのこと)はありますが、盛んではないのです。

 カタルーニャ州議会の解散や、州首相が国家反逆罪に問われたり、独立派と反対派の対立はますます深まるばかり。この先どうなるか予断を許しません。

ホテルの有線で見た闘牛。地上波では中継がないとか。 

 それにしても今年は本当に異常気象でした。6、7月に梅雨がないかと思ったら、8月は雨ばかり、9月10月は台風も多く、今は朝晩寒いくらいの季節となりました。

 思い返せば、スペインに行く前には、ポルトガルでは山火事が起き、マドリードは40度の暑さと聞いて出発したのでした。マドリード二日目の朝は6時には目が覚め頭はすっきり。日本に戻ると時差ぼけで夜中の2、3時に目覚めてしまうのですが、旅先はこれで乗り切れます。

 8時過ぎにはホテルを出発。高速道路に入ると、視界が開け、雲ひとつない青空はどこまでも青く、地平線に見える赤茶けた山々もくっきり見えてきました。

「まさか1日ずっと雨は降らないでしょうけど」と青空を見上げるコーディネーターの小川さん。でもスマホの天気予報では明日明後日と雨と雷。

 The rain in Spain stays mainly in the plain.

ミュージカル『マイフェア・レディ』のフレーズを思い出しました。

 緑濃い日本とはまるで異なるスペインの景色。日本では愛好家がすっかり減ったという盆栽ですが、なぜか海外では盆栽がブームに。自然の違いがその理由のひとつなのかもしれません。今回の取材では、海を渡った盆栽をどうビジュアルで表現するかが大きな課題でした。壁を背にした盆栽を写すだけでは、日本もスペインも変わり映えしないからです。クラシックな建物とかスペインらしい景色を背景にできないか、企画時からの課題でした。

抜けるような青空の下、マドリード郊外へ。

盆栽愛好家のプール付き住まい。

 

  開業して23年目のアルコベンダス博物館は残念ながらモダンな建物。屋外は菩提樹の大木と池を配した回廊式の庭園で、盆栽が展示されています。地面には闘牛場の黄色い土が敷かれ、展示台にはスペインの石が使われていますが、どれも盆栽が引き立つように板壁やモルタル壁を背にしています。抜けるような青空と強い光はスペインらしいとはいえ、もうひとつなのです。

 

アルコベンダス盆栽博物館の庭園展示場。

 結局、せめて強い光は抑えたいと、取材予定を前倒ししたところ、翌日から2日間続いて雨のマドリード。その間は美術館巡りで過ごし、再び晴れ渡った空の下、残りの取材を無事終えることができました。

雨の日のプラド美術館。

日本ではあまり知られていませんが、ティッセン・ボルミネッサ美術館はオススメです。

上は壁面緑化。下は植物園のような中央駅の構内。緑への熱意が感じられます。

 

 今回は1週間の滞在だったので、スペイン料理で通すことができました。思いつくまま昼夜に食べたものをあげれば、生ハム、青唐辛子の素揚げ、ムール貝のワイン蒸し、マッシュルームのオリーブ煮、ガリシア風のタコ、イカのリング揚げ、ビーフステーキ、パエリャ、エビのアヒージョ、イワシの唐揚げなどなど。日本の居酒屋と違って、ひとつひとつの量が多く、二人で食べられるのはせいぜい3品。バルで周りを見渡しても、4、5人の家族連れが多く、二人客はデートらしきカップルくらいなのです。

とにかく量がたっぷり。二人で1人前で十分です。

エビのアヒージョが人気の店。

ムール貝の専門店。白ワインはぐい呑のような白い磁器の器でいただきます。

日本人に人気のマッシュルーム専門店。マヨール広場のすぐそば。

 ホテルの朝食はビュッフェスタイルでしたが、印象に残ったのはミキサーにかけたトマト。これをパンにすりつけ、生ハムやチーズ、オリーブをのせて食べると美味でした。ワインの肴にもなります。

 もうひとつ知ったのはコーヒーの多彩な飲み方ですが、それはあらためて紹介します。

スペインで「暮らす旅」2 マドリードへ 

2017.09.06 |

 前回に続きマドリードの話を書いていたら、バルセロナでテロが起きてしまいました。かつてよく歩いた目ぬき通りのランブラスで、ワゴン車が歩行者めがけて暴走したのです。ここ数年ロンドン、パリ、ベルギーなどヨーロッパ各地でテロが頻発していますが、スペインでは15年前マドリード郊外で起きた列車の爆弾テロ以来なかったので、海外からの観光客にスペインが人気だという話を聞いたばかりでした。

 

緑の豊かなオエステ公園からは王宮とアルムデナ大聖堂がよく見える。  

                              

 マドリードの中心にある太陽の広場を埋め尽くす各国の観光客の楽しげな様子が思い出され、残念でなりません。ただバルセロナには普通の生活を楽しもうと、いまも多くの観光客が訪れているようです。テレビのニュースでバルセロナのテロ犠牲者の追悼集会が映され、そこにはパブロ・カザルスが奏でた鳥の歌が流れていました。フランコ独裁への抵抗とその死によるスペインの解放を象徴する曲を久しぶりに耳にしました。

 

 テロの背景にある貧富の格差や憎しみの連鎖を思うと言葉もありません。ただ、ソフィア王妃芸術センターを訪れた時、ピカソの「ゲルニカ」を前にして様々な人種の人々が一様に真剣な眼差しで佇む中に身を置くと、平和への祈りのようなものを感じた気がしたのです。

 

パブロ・ピカソ 『ゲルニカ』(1937)。(出典 http://www.museoreinasofia.es/en/collection/artwork/guernica)


 今回のマドリードの旅の目的は、郊外にあるアルコベンダス盆栽博物館でした。盆栽が日本とスペインの交流を深めた物語を、ある会員誌の記事のために追いかけました。その取材拠点として選んだマドリードのホテルは、旧市街の中心、マイヨール広場の近く。バルやカフェ、レストラン、お土産店が立ち並び、地下鉄の駅もスーパーも食品店もすぐそば。プラド美術館や王宮などにも歩ける好立地でした。

 

ホテルの近くの小さな広場。正面左はカルデロン劇場、その向かいが元映画館。

 これが京都なら、どこのエリアを選ぶか、もっと細かく、四条河原町、烏丸御池、三条京阪、五条烏丸、京都駅などと絞って考えます。そのときの目的、予算、日程がまずあり、さらに食事場所と移動手段を考えて選ぶのです。京都駅周辺は移動には便利ですが、どうしても夜は祇園や木屋町にでかけたいこの身には、3番手、4番手の候補なのです。宿泊サイトを見ても、桜と紅葉のハイシーズンでも直前に予約できるところを見ると、京都駅周辺のホテルの情緒不足は否めないのでしょう。脇道に逸れました。京都の滞在術はまたあらためて紹介します。

 

 マドリードに着いた夜はなんとか11時(日本時間朝6時)まで起きていようと、ようやく陽が沈む9時半過ぎにその名もバルセロナ通りへ。人だかりの路地の両側には何軒もバルが並び、道のテーブル席はほぼ客で埋まっていますが、店内を覗くと満員でもないようです。名物料理一品で勝負するバルセロナの小さなバルの記憶とは違って、タパスを色々揃え、ビストロに近い気がしました。結局、路地の中ほどのT字路の角の店「Cuevas el Secreto 秘密の洞窟」に入り、生ハムとチーズを肴に赤ワインを2杯飲んでホテルに戻りました。グラスワインを頼む客が少ないせいなのか、どのバルでも新しいボトルを開けてくれ、得した気分でした。(次回に続く)

バルセロナ通りにはさまざまなバルが軒を連ねている。

スペインで「暮らす旅」1

2017.08.04 |

 オリンピックの2年前に行ったバルセロナから27年ぶりのスペイン、マドリードへ行きました。バルセロナのテーマは現代デザイン、マドリードは盆栽と、取材目的の違いはありましたが、グローバル化が進んだこの4半世紀に街はどれほど変わったことでしょう。

 バルセロナを思い起こせば、ひよこの雌雄鑑定士でスペインにわたった通訳の男性と夜な夜な飲みに行ったバルの数々。肴はイワシの唐揚げだけの店で、ポロンというガラス容器の細い注ぎ口から口をつけずにのどに流し込む常連たち。服にこぼしそうでとても真似できるものではありませんでした。

記念に買ってきたポロン

さらにシードルの専門店、ガリシア風のタコと白ワインの店、生ハム専門店とはしごして、翌朝の取材先ではまっさきにトイレに飛び込んだり、サグラダファミリアの塔に登れば螺旋階段で目が回りそうになったりと、遠い記憶が蘇ります。



ガリシア風にパプリカで炒めたタコが肴のバル。白ワインを白いぐい飲みのような杯でいただく。

店の名前もpulpo(タコ)から名付けたPulperia。


サグラダファミリア。このころはあと100年完成までかかると言われてましたがどうやら2026年に完成するらしい。右の彫刻は日本人の外尾悦郎さんが手がけているところ。完成予定像がこちらで見られます。

 バルセロナオリンピックのキャラクターをデザインしたマリスカルが有名でしたが、ガウディの建築が残る街で、家具や雑貨の新しいデザインが注目を集めていました。


アルミの椅子はホルヘ・ペンシのToredo。アルミの取っ手と乗り物の柄が楽しいバッグはマリスカルのデザイン。

バルセロナのモダンデザインの流れはいまも続いています。http://bdbarcelona.com/en


 2週間の雑誌取材でしたが、ホテルのテレビには東西ドイツ統一のセレモニーやキャプテン翼が写っていました。スペイン語ではドイツはアレマーニャ。最初はどこの国と思いましたが、コール首相が出て来てようやく気付いた次第でした。

 ひとつの国名を各国がどう呼ぶかはとても興味深い。例えばスペイン。カタカナ表記では限界がありますが、本国ではイスパーニャ。フランスではエスパーニャ、イタリアはスパーニャ、ドイツはシュパニヤン、アラビア語でオスバーニャ、英語でようやくスペイン。ドイツは本国ではドイチェランド、英語でジャーマニー。イタリアも本国はイターリア、英語はイタリーと、なんとなく日本では外国の名を本国読みに近い形で表現していると思っていたので、スペインが英語表現に近いのは驚きでした。日本では戦国時代、ポルトガル人の発音からスペインと呼ぶようになったとか。

 これを追求していくとなぜ本国でも欧米でもほぼネーデルランドなのに、なぜオランダなのかなど、疑問は果てしなく出てきます。

  この答えが知りたい人はこちらを参照してください。

   https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1432663534

 

 すっかり話題がそれましたが、寄り道ついでにもう一つ。イスラム帝国ウマイヤ朝に支配された中世スペインですが、プラトンなどギリシャ文化がアラビア語に翻訳されていたから、その後ルネサンスが生まれたなんて、面白いですね。

 実はギリシャ語でもオランダはオランディアなんです。

 次回はマドリードの話に戻ります。

マドリード市の紋章クマとイチゴの木の彫像が立つ広場、プエルタ・デル・ソル(太陽の門)

夏越祓の茶会

2017.06.30 |

前回はキキさんのパリの茶会をご紹介しましたが、今回は中山福太朗さんの茶会に行ってきました。茶狂(ぐるい)会が主催する6月の月釜、夏越祓の茶会です。

夏越祓とは、旧暦6月晦日に半年の無事を感謝して、穢れを落とし、残り半年の無病息災を願う行事です。大晦日の年越祓とは一対と言えます。いまでは6月末が近づくと全国的に行われていますが、東京は京都ほど盛んではありません。京都では上賀茂神社や下鴨神社の夏越大祓が有名です。境内には大きな茅の輪が飾られ、茅の輪くぐりの祓が行われます。このとき「水無月の夏越の祓する人は、千歳(ちとせ)の命延(の)ぶというなり」と唱えながら、茅の輪を左回り、右回り、左回りと8の字を描くように3回くぐります。また人形に穢れをうつす方法もあります。

茶会が開かれたのは祇園花見小路の一角にある甘味処「ぎおん楽楽」。参加したのは、その日5回目となる最終の会。待合の座敷に上がると、八坂神社の清水が用意されていて、喉を潤します。常連さんの会話を聞きながら待っていると、茶狂会会長の中田智之さんが現れご挨拶。お茶を始めて30年の中田さんは、お茶への情熱が冷めかけていた時、茶狂会を始めて情熱を取り戻したこと。以来4年間で300回を超える茶事を行なったことなどを話してくれました。

茶狂会は毎回亭主を変えて趣向を凝らした茶会を楽しんでいるそうですが、この夏越祓の茶会と並んで、定番なのが年末の鹿鳴館茶会。みなさん明治時代の紳士淑女になりきる扮装に心を砕いて時間を費やし、お茶は二の次になるほど楽しいとのこと。

   中田さんの後ろに並んだ人形。

挨拶を終えた中田さんが隣室への襖を開けると、現れたのは大きな茅の輪が。ゲストは順にくぐって、ふだんは甘味を楽しむ掘りごたつ式の黒塗りカウンターに腰掛けます。福太朗さんはカウンターの横に置かれた特製の点前座に座っていました。

    

茶碗は神代文字が器全面に描かれたものでした。

夏越祓には欠かせない和菓子、水無月を菓子器にのせて運んできた女性は、福太朗さんの大学時代の茶道部の後輩。彼女は「京都はお茶でできている」の陶々舎の月釜でお客の一人として登場しています。大粒の小豆がのった老舗老松の水無月をいただいていると、気づいたのは窓辺に飾られた人形。夏越祓の趣向と知ったのもあとのことですが、もっと驚いたのはその利用法。席が離れていて見えませんでしたが、福太朗さんはこの人形を茶杓の代わりにして頭の部分で茶入れから抹茶を掬っていたのです。

  

  

茶会を終えて、点前座を拝見。朝鮮の古い瓦を使った炉にも感心しましたが、茶杓がわりの人形の活用はそこにとどまりません。抹茶の緑に染まった人形にみなさん息を吹きかけ、それぞれの厄をうつしてて行くのです。あとで知りましたが、中田さんと福太郎さんは上賀茂で川に流してお祓いをしてくれたそうです。

その後、席を変えた親睦会では、ほとんど初めて会う方々と楽しいひと時を過ごし、再会を約束してFB友達になりました。


キキさんの茶会。京都からモンマルトルへ

2017.06.09 |

6月上旬、キキさんがパリのモンマルトルで茶会を開きました。
場所は、パリジェンヌに人気のWEBサイト「My Little Paris」がスローオフィスとして使っている、緑豊かな庭に囲まれた瀟洒な住宅です。

 モンマルトルの丘を少し下ったあたり

 木々が生い茂る前庭

 待合に使われた部屋

 待合がわりの2階のリビングには、サイトの告知から申し込まれた地元の女性が娘さんや、夫を連れて集まりました。冷たい煎茶を用意したキキさんが、まず茶会の意味や流れを説明します。

「茶会では、お客様は待合から露地を通り、門を潜りぬけ、蹲の水で清めることで、俗界の塵芥を払い落とします。ここには露地はありませんが、観光地の中にあるとは思えないほど、美しい庭を通り抜けて来られたと思います。この後は、蹲の水の代わりに、3階のバスルームで手を清め、さらに階段を上がり屋根裏の茶室に入っていただきます」

 引くしは梁下はまさに躙り口

 三角の梁に囲われた屋根裏部屋には畳2畳が敷かれ、躙り口に見立てた低い梁下をくぐり抜けて席に入ります。炭火を起こした風炉には釜がかかり、書は孔子の末裔による「寧静致遠」。花入には庭の野花。

 ズッキーニと昆布の八寸


 お客さまの多くは初めての茶会。「脚を楽にして、くつろいでください」とキキさん。本来は4時間をかける茶会を、1時間半に短縮しましたものと話し、ベルギー製の酒器でお酒をふるまい、海のもの山のものを載せた八寸を団扇型の皿で供します。

 さらにキキさんはお茶の歴史に始まり、「和敬清寂」「一期一会」といった言葉を紹介して、茶会に集う意味や、他者への気遣いや物を大切にする心を形にする作法をわかりやすく伝えます。

 左は半東のアダムさん

 今回は3泊5日という短いパリ滞在の中、初日と3日目と2回茶会に参加しましたが、初日は、上田宗箇流を学び、今はパリ在住というアダムさんが半東(亭主のサポート役)を務めました。また山田宗徧流のお茶をパリで教えているジルさんも特別参加。キキさんは初日は着物、アダムさん不在の3日目は動きやすい作務衣姿でした。

 茶碗も日本の作家物、中国の天目、デンマークの器などさまざま

 八寸と酒器を皆さんが順に回して片付けると、続いてキキさんが京都から持参したお菓子をお懐紙にとっていただきます。点前が始まると、皆さんはキキさんの動き一つ一つを興味深く見つめています。薄茶を受け取ると、皆さん、崩していた脚から正座して、隣の客に日本語で「お先に」と挨拶していただきます。背筋を伸ばし胸を張った美しい姿がそれぞれに印象に残りました。

 柔道家の夫と参加した彼女。「おさきに」と一礼して茶碗を手にした

 母娘が協力して抹茶点前に挑戦

3日目は最後に、ひとりのママと9歳のお嬢さんが協力して、キキさんにお茶を点てるシーンもあり、座はいっそう和やかになりました。茶会が終わり、皆さん再び梁下を潜りぬけると、邸内のお洒落なインテリアを見て回りました。壁面に日本人の女性イラストレターが描いた素敵な部屋もあり、パリならではの茶会が楽しめました。


 1階のダイニングルーム 「My Little Paris」の絵をすべて描くKANAKOさんの作品


 夏にいったん日本に戻り、秋にはニューヨークでの茶会の計画があるというキキさん。その活動からますます目が離せません。


かも茶今昔物語

2017.05.11 |

 爲さんの賀茂茶の地である北大路橋東詰。そのすぐ北側には、江戸時代に賀茂川でお茶をふるまった売茶翁の碑があります。4年前に彼の没後250周年を記念して建てられた石碑には次のように刻まれています。


「江戸時代、佐賀県蓮池に生まれ、十一歳で出家、黄檗宗僧侶から五十七歳で還俗、京に上る。鴨川畔など風光明媚なところで往来に茶を振舞う。翁を慕い池大雅や伊藤若冲などの文人が集い文化サロンを形成。お茶を急須で淹れる方式が評判となり、その後煎茶が全国に普及した。その精神世界は後に煎茶道の世界に受け継がれている。」

 この業績から「煎茶の茶神」といわれました。


 陶々舎の福太朗さんが「鴨ん茶」と名付けて、鴨川の岸辺で抹茶をふるまい始めた時は売茶翁の存在を知らなかったそうです。その後、彼の石碑が建てられて、「こんなに気持ちの良いのだから、やっぱり(先駆者が)いたんだと思った」と言います。

 

 大陸さんが鴨茶をする前に、立ち寄るのが出町妙音堂です。手水舎で清めてお詣りをして、名水といわれる地下水を汲んで、鴨川デルタでお茶をふるまってきました。ちなみに鴨川はこの上流から賀茂川と高野川に分かれます。そこで場所により鴨茶になったり賀茂茶になったりするわけです。


 ここは妙音弁財天とも呼ばれます。弁財天とは、古代インドの河神に由来し、川音の連想より音楽神とされます。そのためか古より歌詠、音楽、芸能上達などの信仰を集めてきました。日本では奈良時代に弁財天信仰が起こり、水に関わる場所に祀られることが多いのです。今も歌舞伎役者をはじめ、多くの芸能者もよくお詣りされます。

 出町妙音堂の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、本尊は空海の手になるという青龍弁財天画です。永く伏見離宮内に祀られてきましたが、伏見邸の移転で、江戸中期に遷座されました。維新後東京に遷りましたが、明治中期、この地に六角の妙音堂が建てられて戻り、いまは相国寺の塔頭・大光明寺の飛地境内なのだそうです。ここにも日本古来の神仏習合のかたちや明治の廃仏棄釈の影響が見られます。

 妙音堂のある町の名は青竜町といいますが、中国の神話に、北の玄武、南の朱雀、西の白虎、東の青龍という四神がいます。天の四方を司る霊獣され、平安京はその四神に守られた四神相応の地として都に選ばれました。諸説あるようですが、北は船岡山、南は巨椋池、西は山陰道、東は鴨川に囲まれた都なのです。鴨川は青龍に見たてられ、その名を町の名に残しています。

 出町橋西詰の南側は、西には出町桝形商店街の巨大看板や豆餅を買い求める行列が絶えない出町ふたばもあります。この商店街は『京都 食手帖』でも紹介しましたが、「枡形」の名の由来など、続きは次回へ。

 

陶々舎BYE BYEぱぁてぃ

2017.05.07 |

 大徳寺近くの日本家屋を拠点に、陶々舎が活動を続け丸4年。この5月に、3人がこの家に暮らしながら茶の湯をするかたちは終わりとなります。4月30日には「陶々舎BYE BYEぱぁてぃ」が行われ、多くの人が参加し、3人の新たな門出を祝いました。

 今後の活動など「新・陶々舎」の様子はこのコラムで報告しますが、「さらに発展進化する陶々舎にご期待ください」との中山福太朗さんの言葉を楽しみに待ちたいです。

 

 この「ぱぁてぃ」に参加する前に訪れたのは、北大路橋東詰で開かれていた爲さんの賀茂茶。キキさんと入れ替わり席に着くと、同席していたのは、ニューヨーク出身のタッカーさん。俵屋宗達などを中心に日本美術のライターをされている方です。

 ここは、江戸時代、「鴨河」でお茶をふるまった売茶翁の碑があるゆかりの場所でもあります。

「様々な人たちにお茶をさしあげ、深い話もできる賀茂茶は自分にとって最高の茶席」と爲さんは話す。

「背筋を伸ばして、なんでもゆっくりすればかたちになる。きちんとお茶に向き合えばいい」と子供たちにも教えるという爲さん流の作法は、流儀にこだわらない陶々舎のお茶にも通じます。

 鴨川の土手でお茶をふるまう中山福太朗さんの「鴨ん茶」は、人を結び、さまざまに発展していると、改めて実感しました。このお茶の楽しさを知ったからこそ、暮らす旅舎の『京都はお茶でできている』は生まれたのです。

 二服目にはシェイクする冷抹茶もいただいてから「陶々舎BYE BYEぱぁてぃ」に向かいました。

 本にも登場した多くの人たちが集うなか、あらわれたのは能楽ユニット「たぽた」のふたり。庭先で謡い舞い、汲めども尽きぬ酒を謡った「猩々」では、かつて同じ席で、みんなで大合唱したことを懐かしく思い起こしました。

 

facebookで動画を見ることができます。

風景をつくる人

2017.04.14 |

絶景スポット」を探しては、旅をして写真を撮るのが若い人たちの間で流行りのようですね。

 美しい自然の風景には誰もが息を呑みます。不便で人の手が入りにくいところほど、美しい風景が残っているというのはちょっと皮肉な気がします。

 岐阜市の長良川下流にある川原町は、織田信長の時代からの商人町。ある夏、川原町界隈を岐阜提灯を持って歩く、というイベントがありました。当時の観光局長が「夏の宵に、提灯を下げてのんびり散歩する人たちがいる。そんな風景が戻るといいな」とつぶやいたのが印象的でした。

 素敵な風景、これがなかったらいいなの風景、こいつのせいで台無しだ! の風景……。町を歩いては目に入る風景を勝手に評価していましたが、自分の存在も風景をつくる要素になるんだ、ということに改めて気付いたのです。

 3月にイオンモールKYOTO店内で開かれた陶々舎のお茶会では、中山福太朗さんのお茶席が始まる前に、天江大陸さんが、MUJIのワゴンにお茶の道具を組み込んで、お茶をふるまっていました。

「このワゴン、いいでしょう。こんな風にして新幹線の通路を歩いてお茶ふるまえたら面白そうですね。オフィスの中で、こんなワゴンでお茶ふるまったりして」

 キリキリしたオフィスの中で、ひととき抹茶をいただくオフィスワーカー。なるほど。今までになかった新しくて楽しい風景が生まれるかもしれません。

 大陸さんは、釜を組み込んだ自転車で、鴨川べりで道行く人にお茶をふるまっています。小さなパラソルを広げた自転車で、のんびり話をしながら抹茶を点てる大陸さん。子供も外国人も、何してるの? いただいていいの?と興味津々に近寄ります。

 大徳寺そばの日本家屋をお茶の拠点にしようと考えたのも、若い人がお茶に興味を持ってくれたら、身の周りのものを見る目が変わって、床の間のある家に住んでみたくなるかもしれない。荒れ果てた町家に住もうという人ができるかもしれない、と思ってのこと。彼の頭の中には、あちこちで、いろんなシチュエーションで、思い思いにお茶を楽しむ風景が見えるのかもしれません。美しくて楽しい風景に反応していくうちに、我が身もそんな風景をつくる一員になれることに気づくのです。

 さて、鴨川(賀茂川)のお茶風景は大陸さんだけではありません。葵橋のたもとではもしかしたら為さんが、月夜の晩にはお煎茶をする人が、休日の朝早くには太極拳の後に中国茶でひと休みする人たちが。運が良ければ出会えるかもしれません。

 そんな景色が、あちこちで見られたら楽しいだろうな。

三たびの偶然

2017.04.06 |

 初めて陶々舎を訪れてから数週間。『京都 食手帖』の取材後、愛宕山に登ることになりました。愛宕神社の千日詣りに開かれる夕御饌祭(ゆうみけさい)の撮影をする高嶋さんについて行くことにしたのです。

 高嶋克郞さんは『京のろおじ』以来ずっと、暮らす旅舎のメンバーとして、多くの写真を撮っているカメラマンです。

 

古川町商店街の脇商店でいただいたちらし寿司とお稲荷さん。


 当日午前中は、古川町商店街の取材。お惣菜の脇商店で、愛宕山に登ると話すと押し寿司のお弁当をいただきました。かわりに「火迺要慎」のお札を届けると約束。午後には嵐山の寿司店、大善の取材を終えて、夕方、愛宕山の登山口である清滝バス停そばに車を駐めました。


大善の鮎寿司


 千日詣りとは、7月31日夜から8月1日早朝にかけて参拝すると千日分の防火のご利益があるといわれ、愛宕神社には多くの人が訪れます。とはいえ普通の参詣ではありません。頂上に愛宕神社の社殿がある愛宕山は、京都では最も高く、標高は924m。

 登山の経験はあまりありませんが、なんとかなると登り始めたら、15分もしないうちに後悔の念が。とはいえ、お弁当のお礼もあり、引き返すこともできません。石段と坂道が続く4キロの道をひたすら登って行くのです。下りてくる参拝客に「おくだりやす」と声をかけると、「おのぼりやす」と返してくれます。

先が見えないほどずーっと上り。振り返るとこんな感じです


 三歳までの子供が参拝すると生涯火事には遭わないからと、子供を背負ったお父さんもいれば、だっこしたりなだめたりして登るお母さんもいます。なかには白ひげを伸ばした結構な歳のおじいさんもいて、いわゆる登山とは違う風景があります。しかも眺めが良いわけでもありません。九十九折の道はまだしも、先が見えない一直線の階段を見上げたときには心が折れそうになりました。

 

 3時間以上かけてようやく神社にたどりつくと、手ぬぐいは汗でぐっしょり。持っていたペットボトル2本の水もほぼなくなっていました。参拝後、お札を購入して、お神酒もいただき、お弁当を食べたり、休んだり社殿を見学するうち、本殿には山伏が登場。夕御饌祭の神事、護摩だきを見学してから、山を下りました。

愛宕神社のお札。

 下りはやはり楽です。登山者のなかに、取材で知り合った人を見つけたり、上りとはちがって「おのぼりやす」の掛け声も元気です。登山口に着いたのは真夜中の0時頃。1時間半ほどの道のりでした。

 ビールを飲んで高嶋さんを待っていると、先日陶々舎で挨拶をかわしたキキさんにばったり。スポーツウェア姿で、友だちと登って、下りてきたところだといいます。上り1時間半、下り45分と聞いて、そのアスリートぶりにはびっくり。

 「もうバスがなくなり、車に乗りきれない友だちふたりがいるので、車があれば送って欲しい」とキキさん。やがて高嶋さんも下りてきて、ふたりを大徳寺へ送ることになりました。陶々舎の天江大陸さんと、友人の藤田さんとはこれが初対面でした。

  一日おいて2日の昼に訪れたのが西本願寺そばの旅宿井筒安。『京都手仕事帖』で紹介した庖丁コーディネーター、廣瀬さんの取材でした。

 ご主人の井筒さんに、まずはお茶をどうぞと、白木のカウンター席に案内されます。そこへお茶を持って現れたのが、車で送った藤田さん。小さな茶碗に数滴だけ注がれた煎茶の美味しさも格別でしたが、なにより偶然の連鎖に驚きました。藤田さんは井筒安で働いていたのです。

 藤田さんは陶々舎の近くに住み、一緒に活動することもしばしば。キキさんとふたりで、お茶とお酒の会「おちゃばー」も開催しました。 

おちゃばーを開いたキキさんと、フジコさんこと藤田さん

 8月上旬は「食」と「手仕事」2冊の本の取材と、『水の都 京都』の校了がありました。

 校了を終えほっとひと息ついたお盆休みに出かけたのが、下鴨神社の納涼古本祭り。広い境内の木立の下に並ぶ古書市をぶらぶら。本のデザインに使えそうな古い図版を物色したり、屋台で昼食を食べたりしていたら、三度目の偶然が起きたのです。

 テント脇で夢中で本に目を落とす横顔に見覚えがあり、声をかけるとやっぱりキキさん。なんと彼女、茶筅の本に見入っていました。藤田さんとの出会いを話すと、キキさんも知ってました。京都は狭いと言ってしまえばそれまでですが、2度あることは3度あったのです。

陶々舎 の3人

 茶筅の写真が並んだ古書を立ち読むチリからやってきた若い女性。日本人の男性ふたりと、大徳寺そばの古い日本家屋に住み、お茶三昧の日日を過ごす。——お茶とはほぼ無縁の暮らしだった私に、陶々舎の存在はさまざまな疑問をわき起こしました。

 一連の偶然の出会いから生まれた『京都はお茶でできている』。彼らを惹きつけてやまない「お茶と京都」の魅力を追求したいと思いました。

川口美術のこと

2017.03.28 |

 茶会といえば、未経験の人には「作法やしきたりがあって敷居が高そう」。経験のある人でも「足がしびれて窮屈なだけ」とそんな話を耳にします。自分も別世界と思ってきました。

 ところが陶々舎の茶会レポートで報告したように、流儀や決まりごとを知らない客でも、茶会に参加できて面白いことを、陶々舎は教えてくれました。その発見をひとりでも多くの方に知って欲しくて、出版したのが『京都はお茶でできている』でした。

 

 陶々舎を知ったのは、『京都食手帖』と『京都手仕事帖』の取材中のこと。ひきあわせてくれたのは川口美術の川口慈郎さん。京都下鴨神社近くの自宅で朝鮮骨董の店を開き、来年25周年を迎えます。

 川口さんに「食手帖ならオススメしたい店がある」と、鞍馬口通りに近い店「万年青」へ連れて行ってくれたのが3年前の7月半ば。カウンターに座ると「会わせたい人がいるのでお呼びしました」と川口さん。遅れて現れたのが陶々舎の中山福太朗さんでした。

 若い三人がお茶をするために一つの家に暮らしていると聞いて、串揚げを堪能したのち、陶々舎でお茶をいただくことに。大徳寺孤篷庵へ向かう石畳の坂道をのぼり、右手の和風住宅が陶々舎です。

 格子戸を開け放った縁側で、ロウソクの灯りの下、福太朗さんが抹茶を点ててくれました。なぜだか不思議と蚊がいなかったことが記憶にあります。実はその後、いくつもの偶然が重なって、一冊の本につながるのですが、その話はまたあらためて。

 今回はさまざまな人やお店をつないでくれる川口さんのことを書きます。

 川口慈郎さんと知り合ったのは「京都に骨董を買いに行く」という雑誌特集の取材。川口さんがホテル勤めをやめ、店をオープンして数年後のことでした。バンダジ(朝鮮箪笥)には野の花を挿した新羅や高麗の土器が置かれ、そのたたずまいは今も変わりません。


 

 六甲のホテルに始まり、倉敷や京都のホテルでキャリアを重ね、永らくホテルマンとして活躍された川口さん。とくに大原美術館に隣接する倉敷国際ホテルでは民芸とも出会い、大きな経験に。また京都三条のホテル時代には、近くの骨董店に通い、「初めて骨董に惚けました」と話してくれました。 

 独立を目指し川口さんが選んだ骨董の道ですが、全くの素人からの出発。朝鮮骨董を扱うきっかけは古い土器との出会いがありました。奥様が生花をされていて、土器に花を生けると長持ちする。朝鮮の器といえば、李朝白磁が有名ですが値段が高い。ところが土器は遺跡の出土品で考古学的な価値はあっても価格は割安。また土器を並べる台として仕入れたバンダジも人気を呼びました。

 高台寺傘亭の撮影で川口夫妻に花生けをお願いしたこともありました。その後も、大文字の送り火を胡弓の演奏と共に店の2階から眺めたり、葵祭の行列を店先に設けた観覧席で楽しんだりと、お付き合いを重ねました。

2階のギャラリースペースでは、陶芸など作家の展覧会を川口さんは企画。注目を集めた陶芸家も多く生まれました。さらには毎年数回買い付けに訪れる韓国の旅から、白磁の故郷、青松(チョンソン)郡との友好関係を結ぶまでになりました。

 


5周年を記念して青松で開催された日韓交流白瓷展のオープニングセレモニー


 

茶会が開かれた望美亭は河を一望する地にある百数十年前の伝統的な建築


 その青松で白磁を学ぶ陶芸家の支援もし、昨年5月には川口美術の茶道部長である福太朗さんを連れ韓国へ。友好関係5周年を記念して青松郡守を主客に招き、現地で学んだ江頭龍介さんの白磁を使い、望美亭(マンミジョン)という由緒ある席で、茶会を開いたのです。その様子も含め、今回の本では「川口慈郎と陶人茶人たち」として、陶芸家とお茶数寄の出会いを紹介できました。

 

 川口さんの情熱あふれる行動力は目をみはるばかり。会うたびにいい店を見つけたと教えてくれます。いつか、元田中駅そばにあったウィークエンダーズまでコーヒー豆を買いに自転車で通うと聞きました。早速行くと、広々と気持ちのよいコーヒー店でしたが、その後店を移り、あきらめたこともありました。でも猫町カフェ、雲心月性、木と根、ひらがな館など、暮らす旅舎の本には川口さん推薦の店が多く登場しています。

  来年の25周年には、福太朗さんと山野草の「みたて」さんにお願いして毎月企画展を行うそうです。どんな1年になるかいまから楽しみです。

 

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