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ラム・お知らせ

暮らす旅スタッフの京都に関するコラム、
お知らせや京都の催事・イベント情報など随時掲載していきます。

すべては丹田から?

2018.04.25 |

春の訪れが予想外の早さだった今年。3月末の京都はさまざまな桜が咲きほこっていました。

思いもかけず桜の季節に始まった私たちのお茶の稽古。1月に訪れたときは底冷えのした福太朗さんの住まいでしたが、ついています。

「なんのためにお茶を学びたいかまずは確認させてください。お茶会に参加するためとか、亭主ができるようになりたいとか」と福太朗さん。それぞれの目的や目標に合わせた稽古をするということです。

果たして自分に目標はあるでしょうか。

 連れ合いがお茶を習い始めたのは10数年前のこと。最初の先生は高齢のため教室を閉じることになり、次の先生のところでは「お仲間たち」と肌合いがあわず退会した経験があります。いつかまた習いたいと思いながらも、これと思う先生との出会いがなかったとか

 一方私のお茶は、読書少々の耳学問のみで稽古はまったくの初心者。見よう見まねで、お茶会に参加してきましたが、振る舞いには呆れられることも多かったはず。

 『京都はお茶でできている』の2年近い取材を通して、陶々舎のみなさんの創意工夫や、お茶を通じた集まりの楽しさが実感できて、茶道の窮屈なイメージが覆されたのです。もっとこの世界を覗いてみたい。そんな好奇心が弟子入り志願の理由で、具体的な目的はとくになしというのが正直な答えでした。

 とはいえ「やはり亭主とかやってみたいです」と答えた自分。

「ではまず盆略点前からやりましょう。その前にまず茶室の掃除をしていただきます」と福太朗さん。

 わたしたちの稽古は茶室の箒がけと雑巾がけから始まりました。連れ合いはいままで稽古で掃除したことはないそうで、草むしりや掃除が、客を迎える亭主の基本ということを、身をもって学ぶ機会となりました。

「掃除をすると、部屋のスケールを感じたり、畳の目を見たりできますよ」と福太朗先生。

 雑巾を絞りながら真冬じゃなくてよかったと思いつつ掃除を終えました。

「次は茶碗をそれぞれ選んで、抹茶を漉してください。終わったら棗に入れます。その次は茶巾の準備です」と先生。

 漉した抹茶を棗に入れますが、棗の蓋の深さまで、抹茶を山盛りにします。茶巾は水に濡らして絞って畳んで、茶碗の中に入れて茶筅も置き、茶杓を茶碗の縁にのせ、お盆に棗と茶碗をセットして、控えの間となる居間に運びました。

 いよいよ稽古本番。茶室に入ります。

「入り方は次の機会にして、今日はお辞儀をやりましょう。お辞儀にも真行草があります。まずは座ってください」

 ここで正座です。最近、正座は骨関節の動きはもちろん呼吸を整えるなど体にとてもよい座り方だと本で知って、お茶の稽古はヨガに通じると理解したばかりでした。多少足が痛いのも我慢、我慢。

「腰に蝶番があるように、頭の重みを感じてパタンと前に倒すだけです。手はその動きにつれて、自然に畳につきます。手のひらが畳に全部つくと真。第一関節で行、指先だけが草です」

 畳の縁から膝まで何目あけて座り、足の指や手の位置など、正座のお辞儀ひとつも、言葉にすると実にたくさんの手順があり、それぞれを意識してみると、手の揃え方ひとつ、簡単そうで難しい。言葉では到底覚えきれるものではありません。だから体が覚えるまで稽古が必要なんですね。

 高校時代は弓道をやっていた福太朗さんにとって、茶道の身体動作の面白さに惹かれたそうですが、確かにお茶をする身体の動きは美しく、お茶を習う目標のひとつなのかもしれません。というわけでガンバラネバ。

 ここでキーワード、「丹田」の登場です。全ての動作の中心となるのが、身体の重心である丹田です。常に丹田を意識することで、動きはゆっくりと優雅に行なえる。けして手先や足先で動いてはいけないということ。お茶のすべての作法もこの丹田から始まるのだそうです。

 正座とお辞儀の次は、立ち方、歩き方。丹田を意識して爪先を返してスッと立ちあがると、摺り足をホバークラフトのように少し浮かし、ささっと歩く。六畳の座敷をくるくると10数周もしたでしょうか。

 歩く、座る、立ち上がる。この日常動作こそ、お茶の亭主にとって作法の基本動作というわけです。

次回、「盆略点前」編に続きます。

茶のない「お茶」

2018.04.01 |

 「京都はお茶でできている」の出版から1年半。ついにお茶の稽古を始めることにしたのです。きっかけはお正月明けの京都。中山福太朗さんを新居に訪ねました。

大徳寺そばの陶々舎から同じ北区内の民家に移った福太朗さん。ガイセ・キキさんはチリに帰国。天江大陸さんは新しいメンバー2人とともに陶々舎を拠点に活動しています。3月に発売されたムック『お茶の京都』でもみなさんの活躍が紹介されています。

福太朗さんの新居は、土間に井戸がある農家の一角です。昨年6月に引っ越してから、柱梁や床を直すなど手を入れながら暮らしています。年明けに訪れた寒い朝。「台所の暖房はあきらめました」と福太朗さん。石油ストーブと火鉢で暖かな居間に通され、お茶を点てていただきました。「福ハ内」と書かれた菓子箱にはそら豆のような形の焼き菓子。

居間の隣は元仏間の床の間もある和室。奥の窓際には庭で朽ちかけていた水屋箪笥。もう少し手直しして台所で使うとのことです。陶々舎同様、ろうそくの灯で垂らされた畳には、炉を切り茶室として使えるようにしました。いまはここでお茶を教えているそうです。


半年ぶりのあれこれを話すうち、置碁をしましょうと福太朗さん。取り出された碁石を、白黒両方を掴みとって手元におきます。「順番にいくつでも、碁をおいていきます」古い床材を転用した低い卓子にばらばらと置かれる碁石。

「置き方でなんとなく人柄が知れたり、次々と変わっていく碁石の景色も面白いです」以前このコラムでも紹介した「置き花の茶会」にも通じる趣向です。抹茶がなくても「お茶」ができるのではと話す福太朗さん。パチリと置いたり、バラっと撒いたり、盤面の様子だけでなく音も楽しむ。その場に集中して、ひと時を過ごす「お茶」の時間。なるほどと思いました。

2日後新幹線に乗る前に、京都駅そばの崇神新町に寄りました。ここで陶々舎が釜をかけていると聞いたのです。崇神新町は京都駅から5分の街の一角に現れた、フードコートといえば近いでしょうか。好きなテーブルに座って好みの食事とお酒が楽しめるスタイルです。

福太朗さんや陶々舎新メンバーの三窪笑り子さんたちがお茶を振舞っていました。ワインにタパス、日本酒におでんを楽しんだあと、抹茶をいただきました。そのときです。楽しいお茶をこれからも追いかけるなら、福太朗さんに弟子入りするしかないと思い立ち、その場で志願したところ、心よく受け入れてくれました。 (次回は稽古の様子をお知らせします)

南禅寺と哲学の道を満喫する宿

2018.01.14 |

陶々舎の福太朗さんが引っ越した家を訪ねて年明けの京都へ。

夏越しの茶会から、早、半年が過ぎ、山に雪も見える冬景色です。

滞在は町家の宿の葵KYOTO STAY。

新しく南禅寺そばの哲学の道沿いにできた「看月亭」です。

春には円山公園由来のしだれ桜も楽しみな看月亭の庭。


庭を取り込む土間が居間と茶室をつなぐ。


居間

茶室

寝室

夜は雪見障子の向こうにライトアップされた庭が広がる。

哲学の道の向こうに東山が迫る。


琵琶湖疎水の水を引き込んだ池を望む数奇屋造りの一軒家で、

居間と茶室をぐるりと囲む土間からは、庭を一望できます。

ほかの葵KYOTO STAY同様、キッチンやバスルームは最新設備で、床暖房も完備されています。

庭に出れば、哲学の道の向こうに東山が迫り、

日が暮れれば明かりが灯る池の空に月があがり、

看月亭の由来をうかがえます。

このロケーションをお茶や食事をしながら過ごす時間は特別。

一歩外に出れば、哲学の道の散策も楽しめ、

観光で訪れる寺社では味わえないプライベートなひとときは

まさに暮らす旅ならではの醍醐味です。

手前に万両、向こう岸には南天の実が冬の哲学の道を彩る。


猫だけでなく猿も散策する哲学の道。


スペインで「暮らす旅」3

2017.11.05 |

 マドリードの話を続けるつもりが、気づけばふた月も過ぎてしまいました。筆者が脊椎化膿症でひと月あまり入院したせいもありますが、スペインではバルセロナのテロのあと、カタルーニャ州の独立をめぐり、厳しい対立が起きてしまいました。

 カタルーニャの州都であり、経済的にはスペイン一の稼ぎ頭でもあるバルセロナは、首都マドリードとの距離は600km。高速列車で約3時間と東京神戸間と同じです。ところが東京と関西以上に、言葉はもちろん文化的にもマドリードとバルセロナは大きく違います。スペインといえばすぐに連想される闘牛やフラメンコはカタルーニャでは人気がありません。バルセロナ市内にはかつてあった闘牛場も今はなく、フラメンコは観光客相手のタブラオ(フラメンンコを鑑賞できるレストランのこと)はありますが、盛んではないのです。

 カタルーニャ州議会の解散や、州首相が国家反逆罪に問われたり、独立派と反対派の対立はますます深まるばかり。この先どうなるか予断を許しません。

ホテルの有線で見た闘牛。地上波では中継がないとか。 

 それにしても今年は本当に異常気象でした。6、7月に梅雨がないかと思ったら、8月は雨ばかり、9月10月は台風も多く、今は朝晩寒いくらいの季節となりました。

 思い返せば、スペインに行く前には、ポルトガルでは山火事が起き、マドリードは40度の暑さと聞いて出発したのでした。マドリード二日目の朝は6時には目が覚め頭はすっきり。日本に戻ると時差ぼけで夜中の2、3時に目覚めてしまうのですが、旅先はこれで乗り切れます。

 8時過ぎにはホテルを出発。高速道路に入ると、視界が開け、雲ひとつない青空はどこまでも青く、地平線に見える赤茶けた山々もくっきり見えてきました。

「まさか1日ずっと雨は降らないでしょうけど」と青空を見上げるコーディネーターの小川さん。でもスマホの天気予報では明日明後日と雨と雷。

 The rain in Spain stays mainly in the plain.

ミュージカル『マイフェア・レディ』のフレーズを思い出しました。

 緑濃い日本とはまるで異なるスペインの景色。日本では愛好家がすっかり減ったという盆栽ですが、なぜか海外では盆栽がブームに。自然の違いがその理由のひとつなのかもしれません。今回の取材では、海を渡った盆栽をどうビジュアルで表現するかが大きな課題でした。壁を背にした盆栽を写すだけでは、日本もスペインも変わり映えしないからです。クラシックな建物とかスペインらしい景色を背景にできないか、企画時からの課題でした。

抜けるような青空の下、マドリード郊外へ。

盆栽愛好家のプール付き住まい。

 

  開業して23年目のアルコベンダス博物館は残念ながらモダンな建物。屋外は菩提樹の大木と池を配した回廊式の庭園で、盆栽が展示されています。地面には闘牛場の黄色い土が敷かれ、展示台にはスペインの石が使われていますが、どれも盆栽が引き立つように板壁やモルタル壁を背にしています。抜けるような青空と強い光はスペインらしいとはいえ、もうひとつなのです。

 

アルコベンダス盆栽博物館の庭園展示場。

 結局、せめて強い光は抑えたいと、取材予定を前倒ししたところ、翌日から2日間続いて雨のマドリード。その間は美術館巡りで過ごし、再び晴れ渡った空の下、残りの取材を無事終えることができました。

雨の日のプラド美術館。

日本ではあまり知られていませんが、ティッセン・ボルミネッサ美術館はオススメです。

上は壁面緑化。下は植物園のような中央駅の構内。緑への熱意が感じられます。

 

 今回は1週間の滞在だったので、スペイン料理で通すことができました。思いつくまま昼夜に食べたものをあげれば、生ハム、青唐辛子の素揚げ、ムール貝のワイン蒸し、マッシュルームのオリーブ煮、ガリシア風のタコ、イカのリング揚げ、ビーフステーキ、パエリャ、エビのアヒージョ、イワシの唐揚げなどなど。日本の居酒屋と違って、ひとつひとつの量が多く、二人で食べられるのはせいぜい3品。バルで周りを見渡しても、4、5人の家族連れが多く、二人客はデートらしきカップルくらいなのです。

とにかく量がたっぷり。二人で1人前で十分です。

エビのアヒージョが人気の店。

ムール貝の専門店。白ワインはぐい呑のような白い磁器の器でいただきます。

日本人に人気のマッシュルーム専門店。マヨール広場のすぐそば。

 ホテルの朝食はビュッフェスタイルでしたが、印象に残ったのはミキサーにかけたトマト。これをパンにすりつけ、生ハムやチーズ、オリーブをのせて食べると美味でした。ワインの肴にもなります。

 もうひとつ知ったのはコーヒーの多彩な飲み方ですが、それはあらためて紹介します。

スペインで「暮らす旅」2 マドリードへ 

2017.09.06 |

 前回に続きマドリードの話を書いていたら、バルセロナでテロが起きてしまいました。かつてよく歩いた目ぬき通りのランブラスで、ワゴン車が歩行者めがけて暴走したのです。ここ数年ロンドン、パリ、ベルギーなどヨーロッパ各地でテロが頻発していますが、スペインでは15年前マドリード郊外で起きた列車の爆弾テロ以来なかったので、海外からの観光客にスペインが人気だという話を聞いたばかりでした。

 

緑の豊かなオエステ公園からは王宮とアルムデナ大聖堂がよく見える。  

                              

 マドリードの中心にある太陽の広場を埋め尽くす各国の観光客の楽しげな様子が思い出され、残念でなりません。ただバルセロナには普通の生活を楽しもうと、いまも多くの観光客が訪れているようです。テレビのニュースでバルセロナのテロ犠牲者の追悼集会が映され、そこにはパブロ・カザルスが奏でた鳥の歌が流れていました。フランコ独裁への抵抗とその死によるスペインの解放を象徴する曲を久しぶりに耳にしました。

 

 テロの背景にある貧富の格差や憎しみの連鎖を思うと言葉もありません。ただ、ソフィア王妃芸術センターを訪れた時、ピカソの「ゲルニカ」を前にして様々な人種の人々が一様に真剣な眼差しで佇む中に身を置くと、平和への祈りのようなものを感じた気がしたのです。

 

パブロ・ピカソ 『ゲルニカ』(1937)。(出典 http://www.museoreinasofia.es/en/collection/artwork/guernica)


 今回のマドリードの旅の目的は、郊外にあるアルコベンダス盆栽博物館でした。盆栽が日本とスペインの交流を深めた物語を、ある会員誌の記事のために追いかけました。その取材拠点として選んだマドリードのホテルは、旧市街の中心、マイヨール広場の近く。バルやカフェ、レストラン、お土産店が立ち並び、地下鉄の駅もスーパーも食品店もすぐそば。プラド美術館や王宮などにも歩ける好立地でした。

 

ホテルの近くの小さな広場。正面左はカルデロン劇場、その向かいが元映画館。

 これが京都なら、どこのエリアを選ぶか、もっと細かく、四条河原町、烏丸御池、三条京阪、五条烏丸、京都駅などと絞って考えます。そのときの目的、予算、日程がまずあり、さらに食事場所と移動手段を考えて選ぶのです。京都駅周辺は移動には便利ですが、どうしても夜は祇園や木屋町にでかけたいこの身には、3番手、4番手の候補なのです。宿泊サイトを見ても、桜と紅葉のハイシーズンでも直前に予約できるところを見ると、京都駅周辺のホテルの情緒不足は否めないのでしょう。脇道に逸れました。京都の滞在術はまたあらためて紹介します。

 

 マドリードに着いた夜はなんとか11時(日本時間朝6時)まで起きていようと、ようやく陽が沈む9時半過ぎにその名もバルセロナ通りへ。人だかりの路地の両側には何軒もバルが並び、道のテーブル席はほぼ客で埋まっていますが、店内を覗くと満員でもないようです。名物料理一品で勝負するバルセロナの小さなバルの記憶とは違って、タパスを色々揃え、ビストロに近い気がしました。結局、路地の中ほどのT字路の角の店「Cuevas el Secreto 秘密の洞窟」に入り、生ハムとチーズを肴に赤ワインを2杯飲んでホテルに戻りました。グラスワインを頼む客が少ないせいなのか、どのバルでも新しいボトルを開けてくれ、得した気分でした。(次回に続く)

バルセロナ通りにはさまざまなバルが軒を連ねている。

スペインで「暮らす旅」1

2017.08.04 |

 オリンピックの2年前に行ったバルセロナから27年ぶりのスペイン、マドリードへ行きました。バルセロナのテーマは現代デザイン、マドリードは盆栽と、取材目的の違いはありましたが、グローバル化が進んだこの4半世紀に街はどれほど変わったことでしょう。

 バルセロナを思い起こせば、ひよこの雌雄鑑定士でスペインにわたった通訳の男性と夜な夜な飲みに行ったバルの数々。肴はイワシの唐揚げだけの店で、ポロンというガラス容器の細い注ぎ口から口をつけずにのどに流し込む常連たち。服にこぼしそうでとても真似できるものではありませんでした。

記念に買ってきたポロン

さらにシードルの専門店、ガリシア風のタコと白ワインの店、生ハム専門店とはしごして、翌朝の取材先ではまっさきにトイレに飛び込んだり、サグラダファミリアの塔に登れば螺旋階段で目が回りそうになったりと、遠い記憶が蘇ります。



ガリシア風にパプリカで炒めたタコが肴のバル。白ワインを白いぐい飲みのような杯でいただく。

店の名前もpulpo(タコ)から名付けたPulperia。


サグラダファミリア。このころはあと100年完成までかかると言われてましたがどうやら2026年に完成するらしい。右の彫刻は日本人の外尾悦郎さんが手がけているところ。完成予定像がこちらで見られます。

 バルセロナオリンピックのキャラクターをデザインしたマリスカルが有名でしたが、ガウディの建築が残る街で、家具や雑貨の新しいデザインが注目を集めていました。


アルミの椅子はホルヘ・ペンシのToredo。アルミの取っ手と乗り物の柄が楽しいバッグはマリスカルのデザイン。

バルセロナのモダンデザインの流れはいまも続いています。http://bdbarcelona.com/en


 2週間の雑誌取材でしたが、ホテルのテレビには東西ドイツ統一のセレモニーやキャプテン翼が写っていました。スペイン語ではドイツはアレマーニャ。最初はどこの国と思いましたが、コール首相が出て来てようやく気付いた次第でした。

 ひとつの国名を各国がどう呼ぶかはとても興味深い。例えばスペイン。カタカナ表記では限界がありますが、本国ではイスパーニャ。フランスではエスパーニャ、イタリアはスパーニャ、ドイツはシュパニヤン、アラビア語でオスバーニャ、英語でようやくスペイン。ドイツは本国ではドイチェランド、英語でジャーマニー。イタリアも本国はイターリア、英語はイタリーと、なんとなく日本では外国の名を本国読みに近い形で表現していると思っていたので、スペインが英語表現に近いのは驚きでした。日本では戦国時代、ポルトガル人の発音からスペインと呼ぶようになったとか。

 これを追求していくとなぜ本国でも欧米でもほぼネーデルランドなのに、なぜオランダなのかなど、疑問は果てしなく出てきます。

  この答えが知りたい人はこちらを参照してください。

   https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1432663534

 

 すっかり話題がそれましたが、寄り道ついでにもう一つ。イスラム帝国ウマイヤ朝に支配された中世スペインですが、プラトンなどギリシャ文化がアラビア語に翻訳されていたから、その後ルネサンスが生まれたなんて、面白いですね。

 実はギリシャ語でもオランダはオランディアなんです。

 次回はマドリードの話に戻ります。

マドリード市の紋章クマとイチゴの木の彫像が立つ広場、プエルタ・デル・ソル(太陽の門)

夏越祓の茶会

2017.06.30 |

前回はキキさんのパリの茶会をご紹介しましたが、今回は中山福太朗さんの茶会に行ってきました。茶狂(ぐるい)会が主催する6月の月釜、夏越祓の茶会です。

夏越祓とは、旧暦6月晦日に半年の無事を感謝して、穢れを落とし、残り半年の無病息災を願う行事です。大晦日の年越祓とは一対と言えます。いまでは6月末が近づくと全国的に行われていますが、東京は京都ほど盛んではありません。京都では上賀茂神社や下鴨神社の夏越大祓が有名です。境内には大きな茅の輪が飾られ、茅の輪くぐりの祓が行われます。このとき「水無月の夏越の祓する人は、千歳(ちとせ)の命延(の)ぶというなり」と唱えながら、茅の輪を左回り、右回り、左回りと8の字を描くように3回くぐります。また人形に穢れをうつす方法もあります。

茶会が開かれたのは祇園花見小路の一角にある甘味処「ぎおん楽楽」。参加したのは、その日5回目となる最終の会。待合の座敷に上がると、八坂神社の清水が用意されていて、喉を潤します。常連さんの会話を聞きながら待っていると、茶狂会会長の中田智之さんが現れご挨拶。お茶を始めて30年の中田さんは、お茶への情熱が冷めかけていた時、茶狂会を始めて情熱を取り戻したこと。以来4年間で300回を超える茶事を行なったことなどを話してくれました。

茶狂会は毎回亭主を変えて趣向を凝らした茶会を楽しんでいるそうですが、この夏越祓の茶会と並んで、定番なのが年末の鹿鳴館茶会。みなさん明治時代の紳士淑女になりきる扮装に心を砕いて時間を費やし、お茶は二の次になるほど楽しいとのこと。

   中田さんの後ろに並んだ人形。

挨拶を終えた中田さんが隣室への襖を開けると、現れたのは大きな茅の輪が。ゲストは順にくぐって、ふだんは甘味を楽しむ掘りごたつ式の黒塗りカウンターに腰掛けます。福太朗さんはカウンターの横に置かれた特製の点前座に座っていました。

    

茶碗は神代文字が器全面に描かれたものでした。

夏越祓には欠かせない和菓子、水無月を菓子器にのせて運んできた女性は、福太朗さんの大学時代の茶道部の後輩。彼女は「京都はお茶でできている」の陶々舎の月釜でお客の一人として登場しています。大粒の小豆がのった老舗老松の水無月をいただいていると、気づいたのは窓辺に飾られた人形。夏越祓の趣向と知ったのもあとのことですが、もっと驚いたのはその利用法。席が離れていて見えませんでしたが、福太朗さんはこの人形を茶杓の代わりにして頭の部分で茶入れから抹茶を掬っていたのです。

  

  

茶会を終えて、点前座を拝見。朝鮮の古い瓦を使った炉にも感心しましたが、茶杓がわりの人形の活用はそこにとどまりません。抹茶の緑に染まった人形にみなさん息を吹きかけ、それぞれの厄をうつしてて行くのです。あとで知りましたが、中田さんと福太郎さんは上賀茂で川に流してお祓いをしてくれたそうです。

その後、席を変えた親睦会では、ほとんど初めて会う方々と楽しいひと時を過ごし、再会を約束してFB友達になりました。


キキさんの茶会。京都からモンマルトルへ

2017.06.09 |

6月上旬、キキさんがパリのモンマルトルで茶会を開きました。
場所は、パリジェンヌに人気のWEBサイト「My Little Paris」がスローオフィスとして使っている、緑豊かな庭に囲まれた瀟洒な住宅です。

 モンマルトルの丘を少し下ったあたり

 木々が生い茂る前庭

 待合に使われた部屋

 待合がわりの2階のリビングには、サイトの告知から申し込まれた地元の女性が娘さんや、夫を連れて集まりました。冷たい煎茶を用意したキキさんが、まず茶会の意味や流れを説明します。

「茶会では、お客様は待合から露地を通り、門を潜りぬけ、蹲の水で清めることで、俗界の塵芥を払い落とします。ここには露地はありませんが、観光地の中にあるとは思えないほど、美しい庭を通り抜けて来られたと思います。この後は、蹲の水の代わりに、3階のバスルームで手を清め、さらに階段を上がり屋根裏の茶室に入っていただきます」

 引くしは梁下はまさに躙り口

 三角の梁に囲われた屋根裏部屋には畳2畳が敷かれ、躙り口に見立てた低い梁下をくぐり抜けて席に入ります。炭火を起こした風炉には釜がかかり、書は孔子の末裔による「寧静致遠」。花入には庭の野花。

 ズッキーニと昆布の八寸


 お客さまの多くは初めての茶会。「脚を楽にして、くつろいでください」とキキさん。本来は4時間をかける茶会を、1時間半に短縮しましたものと話し、ベルギー製の酒器でお酒をふるまい、海のもの山のものを載せた八寸を団扇型の皿で供します。

 さらにキキさんはお茶の歴史に始まり、「和敬清寂」「一期一会」といった言葉を紹介して、茶会に集う意味や、他者への気遣いや物を大切にする心を形にする作法をわかりやすく伝えます。

 左は半東のアダムさん

 今回は3泊5日という短いパリ滞在の中、初日と3日目と2回茶会に参加しましたが、初日は、上田宗箇流を学び、今はパリ在住というアダムさんが半東(亭主のサポート役)を務めました。また山田宗徧流のお茶をパリで教えているジルさんも特別参加。キキさんは初日は着物、アダムさん不在の3日目は動きやすい作務衣姿でした。

 茶碗も日本の作家物、中国の天目、デンマークの器などさまざま

 八寸と酒器を皆さんが順に回して片付けると、続いてキキさんが京都から持参したお菓子をお懐紙にとっていただきます。点前が始まると、皆さんはキキさんの動き一つ一つを興味深く見つめています。薄茶を受け取ると、皆さん、崩していた脚から正座して、隣の客に日本語で「お先に」と挨拶していただきます。背筋を伸ばし胸を張った美しい姿がそれぞれに印象に残りました。

 柔道家の夫と参加した彼女。「おさきに」と一礼して茶碗を手にした

 母娘が協力して抹茶点前に挑戦

3日目は最後に、ひとりのママと9歳のお嬢さんが協力して、キキさんにお茶を点てるシーンもあり、座はいっそう和やかになりました。茶会が終わり、皆さん再び梁下を潜りぬけると、邸内のお洒落なインテリアを見て回りました。壁面に日本人の女性イラストレターが描いた素敵な部屋もあり、パリならではの茶会が楽しめました。


 1階のダイニングルーム 「My Little Paris」の絵をすべて描くKANAKOさんの作品


 夏にいったん日本に戻り、秋にはニューヨークでの茶会の計画があるというキキさん。その活動からますます目が離せません。


かも茶今昔物語

2017.05.11 |

 爲さんの賀茂茶の地である北大路橋東詰。そのすぐ北側には、江戸時代に賀茂川でお茶をふるまった売茶翁の碑があります。4年前に彼の没後250周年を記念して建てられた石碑には次のように刻まれています。


「江戸時代、佐賀県蓮池に生まれ、十一歳で出家、黄檗宗僧侶から五十七歳で還俗、京に上る。鴨川畔など風光明媚なところで往来に茶を振舞う。翁を慕い池大雅や伊藤若冲などの文人が集い文化サロンを形成。お茶を急須で淹れる方式が評判となり、その後煎茶が全国に普及した。その精神世界は後に煎茶道の世界に受け継がれている。」

 この業績から「煎茶の茶神」といわれました。


 陶々舎の福太朗さんが「鴨ん茶」と名付けて、鴨川の岸辺で抹茶をふるまい始めた時は売茶翁の存在を知らなかったそうです。その後、彼の石碑が建てられて、「こんなに気持ちの良いのだから、やっぱり(先駆者が)いたんだと思った」と言います。

 

 大陸さんが鴨茶をする前に、立ち寄るのが出町妙音堂です。手水舎で清めてお詣りをして、名水といわれる地下水を汲んで、鴨川デルタでお茶をふるまってきました。ちなみに鴨川はこの上流から賀茂川と高野川に分かれます。そこで場所により鴨茶になったり賀茂茶になったりするわけです。


 ここは妙音弁財天とも呼ばれます。弁財天とは、古代インドの河神に由来し、川音の連想より音楽神とされます。そのためか古より歌詠、音楽、芸能上達などの信仰を集めてきました。日本では奈良時代に弁財天信仰が起こり、水に関わる場所に祀られることが多いのです。今も歌舞伎役者をはじめ、多くの芸能者もよくお詣りされます。

 出町妙音堂の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、本尊は空海の手になるという青龍弁財天画です。永く伏見離宮内に祀られてきましたが、伏見邸の移転で、江戸中期に遷座されました。維新後東京に遷りましたが、明治中期、この地に六角の妙音堂が建てられて戻り、いまは相国寺の塔頭・大光明寺の飛地境内なのだそうです。ここにも日本古来の神仏習合のかたちや明治の廃仏棄釈の影響が見られます。

 妙音堂のある町の名は青竜町といいますが、中国の神話に、北の玄武、南の朱雀、西の白虎、東の青龍という四神がいます。天の四方を司る霊獣され、平安京はその四神に守られた四神相応の地として都に選ばれました。諸説あるようですが、北は船岡山、南は巨椋池、西は山陰道、東は鴨川に囲まれた都なのです。鴨川は青龍に見たてられ、その名を町の名に残しています。

 出町橋西詰の南側は、西には出町桝形商店街の巨大看板や豆餅を買い求める行列が絶えない出町ふたばもあります。この商店街は『京都 食手帖』でも紹介しましたが、「枡形」の名の由来など、続きは次回へ。

 

陶々舎BYE BYEぱぁてぃ

2017.05.07 |

 大徳寺近くの日本家屋を拠点に、陶々舎が活動を続け丸4年。この5月に、3人がこの家に暮らしながら茶の湯をするかたちは終わりとなります。4月30日には「陶々舎BYE BYEぱぁてぃ」が行われ、多くの人が参加し、3人の新たな門出を祝いました。

 今後の活動など「新・陶々舎」の様子はこのコラムで報告しますが、「さらに発展進化する陶々舎にご期待ください」との中山福太朗さんの言葉を楽しみに待ちたいです。

 

 この「ぱぁてぃ」に参加する前に訪れたのは、北大路橋東詰で開かれていた爲さんの賀茂茶。キキさんと入れ替わり席に着くと、同席していたのは、ニューヨーク出身のタッカーさん。俵屋宗達などを中心に日本美術のライターをされている方です。

 ここは、江戸時代、「鴨河」でお茶をふるまった売茶翁の碑があるゆかりの場所でもあります。

「様々な人たちにお茶をさしあげ、深い話もできる賀茂茶は自分にとって最高の茶席」と爲さんは話す。

「背筋を伸ばして、なんでもゆっくりすればかたちになる。きちんとお茶に向き合えばいい」と子供たちにも教えるという爲さん流の作法は、流儀にこだわらない陶々舎のお茶にも通じます。

 鴨川の土手でお茶をふるまう中山福太朗さんの「鴨ん茶」は、人を結び、さまざまに発展していると、改めて実感しました。このお茶の楽しさを知ったからこそ、暮らす旅舎の『京都はお茶でできている』は生まれたのです。

 二服目にはシェイクする冷抹茶もいただいてから「陶々舎BYE BYEぱぁてぃ」に向かいました。

 本にも登場した多くの人たちが集うなか、あらわれたのは能楽ユニット「たぽた」のふたり。庭先で謡い舞い、汲めども尽きぬ酒を謡った「猩々」では、かつて同じ席で、みんなで大合唱したことを懐かしく思い起こしました。

 

facebookで動画を見ることができます。

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