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かも茶今昔物語

2017.05.11 |

 爲さんの賀茂茶の地である北大路橋東詰。そのすぐ北側には、江戸時代に賀茂川でお茶をふるまった売茶翁の碑があります。4年前に彼の没後250周年を記念して建てられた石碑には次のように刻まれています。


「江戸時代、佐賀県蓮池に生まれ、十一歳で出家、黄檗宗僧侶から五十七歳で還俗、京に上る。鴨川畔など風光明媚なところで往来に茶を振舞う。翁を慕い池大雅や伊藤若冲などの文人が集い文化サロンを形成。お茶を急須で淹れる方式が評判となり、その後煎茶が全国に普及した。その精神世界は後に煎茶道の世界に受け継がれている。」

 この業績から「煎茶の茶神」といわれました。


 陶々舎の福太朗さんが「鴨ん茶」と名付けて、鴨川の岸辺で抹茶をふるまい始めた時は売茶翁の存在を知らなかったそうです。その後、彼の石碑が建てられて、「こんなに気持ちの良いのだから、やっぱり(先駆者が)いたんだと思った」と言います。

 

 大陸さんが鴨茶をする前に、立ち寄るのが出町妙音堂です。手水舎で清めてお詣りをして、名水といわれる地下水を汲んで、鴨川デルタでお茶をふるまってきました。ちなみに鴨川はこの上流から賀茂川と高野川に分かれます。そこで場所により鴨茶になったり賀茂茶になったりするわけです。


 ここは妙音弁財天とも呼ばれます。弁財天とは、古代インドの河神に由来し、川音の連想より音楽神とされます。そのためか古より歌詠、音楽、芸能上達などの信仰を集めてきました。日本では奈良時代に弁財天信仰が起こり、水に関わる場所に祀られることが多いのです。今も歌舞伎役者をはじめ、多くの芸能者もよくお詣りされます。

 出町妙音堂の歴史は鎌倉時代にさかのぼり、本尊は空海の手になるという青龍弁財天画です。永く伏見離宮内に祀られてきましたが、伏見邸の移転で、江戸中期に遷座されました。維新後東京に遷りましたが、明治中期、この地に六角の妙音堂が建てられて戻り、いまは相国寺の塔頭・大光明寺の飛地境内なのだそうです。ここにも日本古来の神仏習合のかたちや明治の廃仏棄釈の影響が見られます。

 妙音堂のある町の名は青竜町といいますが、中国の神話に、北の玄武、南の朱雀、西の白虎、東の青龍という四神がいます。天の四方を司る霊獣され、平安京はその四神に守られた四神相応の地として都に選ばれました。諸説あるようですが、北は船岡山、南は巨椋池、西は山陰道、東は鴨川に囲まれた都なのです。鴨川は青龍に見たてられ、その名を町の名に残しています。

 出町橋西詰の南側は、西には出町桝形商店街の巨大看板や豆餅を買い求める行列が絶えない出町ふたばもあります。この商店街は『京都 食手帖』でも紹介しましたが、「枡形」の名の由来など、続きは次回へ。