4月25日すべては丹田から?
Posted by K.春の訪れが予想外の早さだった今年。3月末の京都はさまざまな桜が咲きほこっていました。
思いもかけず桜の季節に始まった私たちのお茶の稽古。1月に訪れたときは底冷えのした福太朗さんの住まいでしたが、ついています。「なんのためにお茶を学びたいかまずは確認させてください。お茶会に参加するためとか、亭主ができるようになりたいとか」と福太朗さん。それぞれの目的や目標に合わせた稽古をするということです。
果たして自分に目標はあるでしょうか。
連れ合いがお茶を習い始めたのは10数年前のこと。最初の先生は高齢のため教室を閉じることになり、次の先生のところでは「お仲間たち」と肌合いがあわず退会した経験があります。いつかまた習いたいと思いながらも、これと思う先生との出会いがなかったとか。一方私のお茶は、読書少々の耳学問のみで稽古はまったくの初心者。見よう見まねで、お茶会に参加してきましたが、振る舞いには呆れられることも多かったはず。
『京都はお茶でできている』の2年近い取材を通して、陶々舎のみなさんの創意工夫や、お茶を通じた集まりの楽しさが実感できて、茶道の窮屈なイメージが覆されたのです。もっとこの世界を覗いてみたい。そんな好奇心が弟子入り志願の理由で、具体的な目的はとくになしというのが正直な答えでした。とはいえ「やはり亭主とかやってみたいです」と答えた自分。
「ではまず盆略点前からやりましょう。その前にまず茶室の掃除をしていただきます」と福太朗さん。わたしたちの稽古は茶室の箒がけと雑巾がけから始まりました。連れ合いはいままで稽古で掃除したことはないそうで、草むしりや掃除が、客を迎える亭主の基本ということを、身をもって学ぶ機会となりました。
「掃除をすると、部屋のスケールを感じたり、畳の目を見たりできますよ」と福太朗先生。雑巾を絞りながら真冬じゃなくてよかったと思いつつ掃除を終えました。
「次は茶碗をそれぞれ選んで、抹茶を漉してください。終わったら棗に入れます。その次は茶巾の準備です」と先生。漉した抹茶を棗に入れますが、棗の蓋の深さまで、抹茶を山盛りにします。茶巾は水に濡らして絞って畳んで、茶碗の中に入れて茶筅も置き、茶杓を茶碗の縁にのせ、お盆に棗と茶碗をセットして、控えの間となる居間に運びました。
いよいよ稽古本番。茶室に入ります。
「入り方は次の機会にして、今日はお辞儀をやりましょう。お辞儀にも真行草があります。まずは座ってください」ここで正座です。最近、正座は骨関節の動きはもちろん呼吸を整えるなど体にとてもよい座り方だと本で知って、お茶の稽古はヨガに通じると理解したばかりでした。多少足が痛いのも我慢、我慢。
「腰に蝶番があるように、頭の重みを感じてパタンと前に倒すだけです。手はその動きにつれて、自然に畳につきます。手のひらが畳に全部つくと真。第一関節で行、指先だけが草です」畳の縁から膝まで何目あけて座り、足の指や手の位置など、正座のお辞儀ひとつも、言葉にすると実にたくさんの手順があり、それぞれを意識してみると、手の揃え方ひとつ、簡単そうで難しい。言葉では到底覚えきれるものではありません。だから体が覚えるまで稽古が必要なんですね。
高校時代は弓道をやっていた福太朗さんにとって、茶道の身体動作の面白さに惹かれたそうですが、確かにお茶をする身体の動きは美しく、お茶を習う目標のひとつなのかもしれません。というわけでガンバラネバ。
ここでキーワード、「丹田」の登場です。全ての動作の中心となるのが、身体の重心である丹田です。常に丹田を意識することで、動きはゆっくりと優雅に行なえる。けして手先や足先で動いてはいけないということ。お茶のすべての作法もこの丹田から始まるのだそうです。正座とお辞儀の次は、立ち方、歩き方。丹田を意識して爪先を返してスッと立ちあがると、摺り足をホバークラフトのように少し浮かし、ささっと歩く。六畳の座敷をくるくると10数周もしたでしょうか。歩く、座る、立ち上がる。この日常動作こそ、お茶の亭主にとって作法の基本動作というわけです。
次回、「盆略点前」編に続きます。