2月10日暮らす旅舎✖️陶々舎 茶話会 Part3

Posted by S.
2月10日 Posted by S.

——今日は、3人に茶箱を持ってきていただいています。あとで見ていただければと思います。この茶箱をもっていけば、お湯があればどこでもお茶が楽しめます。三人三様。この本では、大文字の山でお茶をしました。水でとける冷抹茶は、暑い日だったので美味しかった。もちろん鴨川でも。この次の写真に写っている人が為さんですが。

福太朗 為さんという人がいます。最初に私は信楽で会ったんですけど。「野暮らし」さんと呼ばれている人がいて、お茶をやっているらしい、車に茶室を積んでいるなど、断片的な情報でしたが、私が行った時に現れて、野暮らしが来たと言ってみんな逃げるんです。茶室に捕まると2時間くらい出られなくなると。これは面白いなと思って入ったら、案の定出られなくて、5年くらい前かな、陶々舎に入る前でした。ずっと記憶にありましたが、陶々舎でまた会う機会があって。いまは賀茂川の北大路でよくお茶をされています。寒くても暑くても、気が向いたらされていますが、入道さんみたいな人です。

昔、売茶翁といって煎茶再興の祖といわれる人がいて、風光明媚な場所だったら、「ただよりもまけ申さず」、いくらでも構わぬと言って、池野大雅や伊藤若冲とか文人たちを中心に、煎茶がばっと広がった時期があったんです。そんな雰囲気で、為さんも喜捨というかたちで、私度僧。お坊さんではないんだけど、自分で志してお坊さんになっている。いただいたもので生活していく。ほんとうに絶滅危惧種なんです。

為さんの姿を見て、お茶ってここまで狂っていいんだ。ここまでやっていい、という幅を見せてもらって、元気づけられ、勇気づけられました。けっして遊びごとではない。お茶はご趣味ですかと聞かれると、いつも困るんです。趣味にしてはだいぶぶち込みすぎていて、いったいなんて呼ぶのか。きっとそういう人たちがお茶以外にも増えていくんじゃないかと、たまたま私はお茶だったけど、他の方は違うものかもしれない。だけど差し出すことができたときに、ちゃんと文化になる。文化だ文化だと思ってやっているわけではなく、こういう形がいまある。昔にあるんじゃなくて、いまも歴史の1ページとして続いていると思うので、皆さんもぜひ何かしら差し出してみれば、なにかになります。

——いまのような話を、本の巻末で陶々舎の茶の湯指南というページで、まとめてもらいました。今日28日は利休忌といって、あちこちのお寺さんで月釜をかけています。僕はお茶のお稽古をしたことはないですが、お客にはなりたいなと思います。月釜ではお茶を二千円もしないくらいで、お茶がいただけて、しかも未公開のお寺を見ることができます。ぜひ陶々舎の茶の湯指南を参考にして月釜に行ってみてください。

福太朗 インフラが整っているので、「在釜」と掛かっていたら、誰でも入っていい。ダメといわれるところはほとんどないので、みなさん行って見てください。座る場所さえ気をつければ、いじめられることはありません。仮にいじめられてもコントだと、貴重な経験ができると思ってください。

——「在釜」かかっているなんて東京では見たことありません。京都がうらやましい。あと最後に一つ、この本の取材で、すごく憧れたことがあります。それは火を扱うことです。暮らしのなかで。とうとう去年の暮れから火鉢の暮らしを始めました。正月は餅を火鉢で焼いて食べたいなと。実際に炭火をおこして鉄瓶でお湯を沸かして、お茶を点てるにせよ、鍋をする、お餅を焼くにせよ、生活が豊かになると実感できました。これは陶々舎と知り合えて良かったさまざまなことのなかでも特筆したいです。50年前なら日本人にとって当たり前だったことが、遠くなってしまった。オール電化の住宅とか、それはそれでいいですが、生の火は火の用心と一酸化炭素中毒さえ気をつければ、こんな楽しいことがあることを知って欲しいです。

——皆さん、今日はありがとうございます。呈茶の前になにか質問などがあれば、お願いします。

質問 市民から自然発生的に生まれるのがほんとうの文化だと思います。お茶のことをティーセレモニーといいますが、セレモニーというと味気ない言葉で、お茶を通じて、ティーヒューマニズム、人間性を培って、そのうえでお茶を通じたティーフィロソフィー、哲学があります。京セラの稲森和雄さんがごついビルを建てていますが、経営哲学から始めていますが、生きることを考えながらくるま座になって、ひとつの見えない輪ができています。テレパシーか何かでつながっている。そしてもうひとつはティーポリシー。やり方なし方、これが問題なんです。この3つの大切なものを、ヒューマニズム、フィロソフィー、ポリシーを集めて京都の大切なアイデンティティとして、五重塔のように築き上げる。ひとつひとつ木を切って、法勝寺の八角九重塔を再建する構想のように、五百年千年の単位で見ることが大切です。近視眼的に歩きスマホをしていてはだめだと思いますがいかがでしょう。

福太朗 よくわかります。ただすごい哲学をもってやってるというと、共感がなくなってしまうようで。自分たちがいいなと思うことを差し出す結果、人がいいといってもらえるのでは。「これが哲学である」だと言うようには、私たちは偉くはないし、普通のことを好きだからやっていて、面白そうだねと一緒にやってくれる人が集まってくれるほどよいことはありません。

質問 哲学は難しいですね。哲学はちょっとふせながら、たとえば鴨長明は河合神社下鴨の掘っ建て小屋に住んで、醍醐のほうに移り住んだ漂泊の詩人みたい。奥の細道の松尾芭蕉もそうですが、ああいう形で一期一会を見つめた先人がいました。そういうお手本を生かしたらどうでしょう。いまはあまりにも情緒情操情念が足りないと思いますがいかがでしょう。

福太朗 いろんな方が参加できるのがお茶の面白いところで、ティーセレモニーとする人もいれば、思い詰めてされる方もいるし、その間口の広さがお茶の豊かさを作っていると思うんです。なので一本これだけという柱ではとても弱くて、富士山のような裾野の広い文化のほうが、五百年、千年続く文化になると思います。今はやっている人の数が少なくて、細い柱になっています。いろんな人が参加すれば、この文化がもっと広がると思います。私たちもいろんな方のお茶をいただきにいきたいし、また差し上げたいです。今日はパワーをいただき、来てよかったです。