2月4日暮らす旅舎✖️陶々舎 茶話会 Part1

Posted by S.
2月4日 Posted by S.

ロームシアター京都 蔦屋書店にて

——今日は本の紹介と陶々舎の活動についてお話します。話のあとで呈茶という形で、陶々舎のお茶をみなさんに味わっていただきます。

暮らす旅舎は「暮らすように京都を旅しよう」という発想から、これまで『京のろおじ』『水の都 京都』『京都 食手帖』『京都 手仕事帖』と4冊の本を出してきました。『京都はお茶でできている』は5冊目で、実は食手帖や手仕事帖を取材しているときに、陶々舎と知り合い「お茶っておもしろい」と思ったことがきっかけで生まれた本です。

京都は東京よりお茶との距離が近いと感じました。東京は日本茶が楽しめるお茶処も少ないし、若い人は急須をもたず、お茶といえばペットボトルばかり。京都は日本茶が楽しめる店が多く、家でも朝やかんで番茶を沸かしたり、抹茶を点てて和菓子を楽しんだりと日常にお茶があります。

この本ではお茶漬けが売りの料理店や、抹茶用の茶葉を育てる昔ながらの茶畑や、宇治の隣の、日本遺産にも選ばれた和束町にある美しい茶畑も紹介しています。そして特に紹介したいのが、今日来ていただいた陶々舎の話です。みなさんから直に聞きたいです。陶々舎の成り立ちからお話ください。

大陸 天江大陸と言います。1988年生まれです。大学は京都で、そのときにお茶を習っていました。卒業後は東京の建築事務所で働いて、社会人になってもお茶を続けたいと思っていましたが、東京には環境がなく、1年間きものも着なかったし、このまま東京にいたらお茶をやめちゃうと思いました。4年前にお茶ができる環境を整えようと、京都で家を探す事にしました。

お茶の先生のところで知り合ったキキに声をかけて、床の間があってお茶ができる家をネットで探して、見つけたのが大徳寺そばの家でした。ただ、ふたりでは広すぎる。3人なら家賃も安くなるし、お茶事をするにも、もうひとりいたほうがいい。料理する人、お茶点てる人、そして裏方と。3人いればお茶ができると思い、人を捜していたら、鴨川でお茶をしてる少年がいると。鴨川でお茶をしている少年なんて怪しくないですか。

実はもう30歳になりますが。どういう人かと思えば、こんな人で。話をしたら、活動に熱い思いを感じました。道行く人にお茶をふるまう。先生が言う、Someone is waiting for your tea.だと。では鴨茶の話をお願いします。

福太朗 はじめまして。昔少年だった中山福太朗です。20代3人がお茶をしながらシェアハウスしているというと、若者やるなという感じですが、30代が1人入ると途端に中年感がでてきて、そろそろ卒業かなと思っています。

大学にはいってからお茶を始めて、卒業するとみんなやめちゃうんですね。同期の部員20人のうち、今も続けているのは私の他1人、2人くらい。これはもったいないし、寂しい。楽しいお茶を続けられればと思った。ただ茶室もないし、ワンルーム暮らしだし。だったら場所を別に借りればいいと。

道行く人にお茶を点てるのを、三条の河原で始めたら、最初の夜に、女子大生が来るは、家族連れが来るは、酔っぱらった外国人は来るはで、これは楽しいと思った。お茶だったら誰でも飲めるし。その活動をしていたら、大陸さんに見つかり、声をかけてもらい、くどかれ、四条河原町の前田珈琲で三時過ぎまで話し込んで、その場でOK。早いもので3年半経ちました。キキが眠りそうなんで変わります。

キキ キキ・ガイセと申します、裏千家の専門学校に1年留学して、そのとき学んだことを続けていきたい。これで終わるともったいない。言葉が強いですが、ちょっとグンみたいな経験、すごい強かった。命が変わりました。稽古場の先生と相談しました。京都でお茶をやりたいけど、大学院行こうかなと言ったら、先生がそれは辞めて欲しいと。お茶を研究している人が多すぎるので意味がない。あなたはこれからお茶やりなさい。能力もちょっと上がったので、これからもっと上がりなさいと。

京都に住んで、御稽古にも通いたかったので、ハワイから日本に引っ越すことにしました。そのとき大陸さんに一緒に家を探しましょうと。そのときはこんな、お茶の生活になるとは思っていなかった。

大陸 もともとプランはもちろんなくて、家が見つかってからのことだった。

キキ 日本らしい伝統的な、京都らしい家に住む事は決めていました。

大陸 20軒以上見ました。

キキ 暗かったり、お茶をやりにくいところしかなかった。

大陸 新築のパナホームみたいなところとか。和室があるからまあいいかとか。

キキ でも目標は茶事をやりたかった。ただのお茶会ならどんな国にいてもできる。ただ茶事は特別。京都にはお茶できる人がどこでもいる。茶事を開いてどなたでも来られるところが欲しかった。この家は水屋も露地もありました。

大陸 動線が使いやすい家で、台所も広いので、料理もしやすいし。それに押し入れも広くて。3人いるので道具が多くて。でもこの家は広いのでけっこう入ります。

大徳寺そばの陶々舎

——茶事と茶会の違いはなんでしょう。

福太朗 お茶会というと、お菓子がでて、お茶がでてきて、床の間に画があって花があってというイメージだと思います。お茶の根本は茶事にあって、だいたい4時間のフルコースで、料理がでて、お酒がでて、最後にお茶が出ます。

それだけ長い時間、亭主とお客さんが一緒に過ごすと、さっきキキが言ったように命が変わるじゃないけど、いろんなものを交感しあえる。すごい濃密な時間ができあがる。なのでほんとうは茶事に来て欲しい。でも「お茶しません?」といって、いきなり4時間確保されるのはまずいじゃないですか。ほんとうは茶事がしたいけど、むちゃくちゃ効率が悪い。ドームを借りきって1万人のライブというわけにはいきません。一人の亭主が頑張って用意しても、5人とかのお客さんを招くしかできない。

ほんとうに茶事に触れるとなると、お茶やってる人に、「茶事してよ茶事してよ」とささやき続けると、呼んでもらえるかもしれません。それが一番面白いから。あらゆる手を尽くしてやろうとしている。キキも朝早く起きてとか。

キキ それもあるけど、さっき言いたかったことは、3人で引っ越すって決めてから、すぐに「最初の茶事はいつ?」って。すぐやりたいと思った。この家が始まるということで、たとえば自分の先生も誘って、感謝の気持ちを表しかった。

難しいところもあったけど、3人の力で簡単にできるようになったんです。1回目、2回目と少しずつ。たぶん最初はこれもないあれもないとなっているけど、それも関係なく、やれますよと。それが大事だった。

——道具がなくても茶事ができたと。

キキ そうそう。水差しがないと、先生に借りるとか。自分だけでやってたら難しいことも、簡単にできました。

陶々舎月釜

——次の写真は「鴨茶」の様子です。大陸さんが自転車に釜を積んで、鴨川でお茶をふるまっています。福太朗さんの鴨茶を広げて行こうと始めたそうですが。

大陸 そうです。一服一銭といって、室町時代の洛中洛外図を見ると、路上でお茶をふるまっている人が描かれていて、これ無茶苦茶面白そうだなと思いました。いまでいうと博多の屋台のような感じなんですけど。街中で、お茶をふるまう人たちがいたんだな。お寺の門の外とか、もちろん鴨川とか。

大学時代にそれをやりたいなと思っていたら、福太朗さんがすでにやっていて。たまたまこの自転車は箱がついていてカセットコンロが仕込める。もともとお祭りの屋台のために作られた屋台自転車なんです。それをお借りして、茶釜を積んで始めたんです。

そうしたら、見た目が不思議なので最初子供がたくさん来る。「何これトランスフォーマー?」「ロボットか」と言われて、「点ててみたい」と行列ができる。するとやはりお母さん方も来るんです。なにやってるのかしらって。僕が点てると苦いというんですが、その男の子が友だちに点てると「美味しい」って。あれそんなことない。同じお茶なんだからって。

でも、多分そういうコミュニケーションというか。僕がここで学んだことは、何かを差し出せるものがあるって素敵だなって。お茶を出すと、代わりにお客さんがくれるんですよ。ここは出町なんで、ふたばの豆大福をくれたり。いただくとありがとうございますと感謝。お菓子や面白い情報をいただいたり、交換が自発的に行われるんです。それは、最初にこっちが差し出さないといけなくて、差し出すと、明らかに怪しいじゃないですか。それを受け取ってくれるというのがうれしい。飲んでいただける。会話が始まる。現代社会ではあまり体験できないことを経験しました。

 

 

——キキさんはアスリートです。愛宕山を1時間少しで登ってしまうほどです。だからこそ毎朝3時4時に起きて朝茶ができるのでは。

キキ 毎朝ではありません。ときどき。日本の会社に勤めていてあまり時間がないです。だから勤めに行く前か、仕事終わったあとでお茶しないといけない。なので朝のほうが強い。むりやりお客さん誘って、明日5時に来ませんかって。2年間で1人しか来なかった。

大陸 1週間やって、毎日来てくれたとかもあったのでは。

キキ それはあとのこと。最初は3回くらい。友達や、あまり知らない人も来ていただいて、そのときは3時半ぐらいに起きて、朝ご飯作って、濃茶薄茶みたいな順番で、全部清めてから、出勤する。それで1日を過ごすとすごく気持ちよかった。

でもやっぱり人が来ないので、ふたりに声をかけて、陶々舎のホームページで朝茶マラソンやりたいと載せました。7日間、仕事行く前に毎日。去年の1月2月ごろ。無茶苦茶寒くて、雪降ったりとか。お客さんがその時間に来てもらい、ありがたい感謝の気持ちがあった。すごい元気になりました。いまも少しずつやってるけど、お客さんがいないとお茶はできないというのは大事。お茶はひとりで座禅やってる感じではなく、相手があるとお茶ができることが大事です。

——3人は掃除が早くて、お茶のために準備、庭や部屋を掃除する。彼らがこの家に引っ越して最初にやったのは、白いエアコンの機械を外して、天井にあった蛍光灯のライトを外して、ろうそくの炎と炭の火の明かりでお茶をするという環境をまず整えた。そのスタイルが徹底しているなと。次の写真は福太朗さんが設計と言うかプロデュースした桂の茶室ですが。

福太朗 今日はこの茶室の方もご家族で来ていただいてありがとうございます。

まったくなんの経験もなかったんですけど、つくってくれないかとお声掛けいただいた。屋内なんです。3階建のお家の中の一角に、がらんどうの状態から茶室を作って。実際に私が工事したというよりは、大工さんとふたりでああしようこうしようと話をして、ほんとうに自由に作らせていただきました。

たとえばホテルの中で、軒が出た茶室が組み込まれたりします。でもいらないじゃないですか、あれは。家の中で、お茶をするスペースとはどんなものか考えました。そうすると、いらないものはやはり要らない。でもこうすると茶室になるという要素がある。マンションでも、こういう場所でも、ちゃんと抜き出すところだけ取り出せば、お茶ができる空間にはなるのでは。

簡単にそのまま形だけ、訳もわからぬまま写すと、訳わからんものができあがってしまう。私たちには何も物がなかったから、どうしたら差し出せるんだろうかとか。どうしたらこの気持ちが生まれるんだろうとか、よく見ると意外と抜き出せるというか、形を変えることができることに気づかされました。よい経験をさせてもらいました。

——これは利休がもし今待庵をつくったらというお題があったそうですが。

福太朗 形としては利休がつくったと言われる、大山崎にある国宝待庵を写したものなんです。畳2枚の部屋に入るって苦しいわけですよ。それをいかに広く見せるかとか、そういう工夫が随所になされていて、それをダヴィンチコードならぬ、利休コードと呼んでいるんですけど、つくるたびに利休コードがひとつひとつ解き明かされる課程が無茶苦茶面白くて、施主さんとワーワーいいながら。これはこうにちがいないとか過程がすごく楽しかった。

お茶のいいところって、ソフトとハードが両方残っているんですよ。人間のからだは、4〜500年、室町の頃からそんなに変わっていない。実際その環境に体がぽんと置かれたら、いきなりそこにタイムスリップすることができます。つまりお茶の点て方とか、どんな道具を使っていたかとか、両方ある中に没入すると、完全に過去に行けるんですよね。その体験が面白くて、それがいま稽古したりとか、そういう場所に身を置くと正しく戻れます。

(次回Part2 に続く)